白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

ダメ人間に戻る

今週のお題「サボる」

 

 




サボるという行為こそがまさにルーティン

サボるということが社会的にプラスなことを行う
ということならば
まさしく俺はサボるという行為を重ねて人生を歩んできてしまった。

サボるということを積み重ねてしまって俺には
もはやサボることこそが日常であり
そこからさらにサボるということは
何か別の言葉で定義することが必要だった。

サボることを辞める

そこで思い切って俺はサボることを辞めたい気持ちになった。
周りのことをみえていない…という認識すらなかった自分にとっては
社会人生活を通して見てて来たものは
「みんな努力しているんだよ」という
案外、漫画や小説、テレビなどの媒体では
ありきたりに書かれていたことだった。

自分と会っていない時間の他人というのは
いったい何をしているのかよく分からない。
もし電話をしていたとしても
何かをしながら、努力をしながら
相手はしているのかもしれない。

まあそんなことはしていなかったが。

それに気づいていなかった自分は
いぜ、自分が比較しようとした時に
絶望的なショックを味わうことになってのである。

だとしたら、俺は努力しないといけない。
今からでもきっと遅くない。

今からでは遅い

子供のころに親が
勉強しろ、勉強しろというのはなぜろうというところだが
幼少期から地道に重ねてきたものを
何も努力していないやつが覆すのは非常に難しい。
人間ランキングをつけてくれれば
自分の立場を見られるものの
ああ本当に、分からない、自分がどこにいるのか。

子供のころは勉強に興味がない。
いや、もっといえば俺は何にも興味がなかった。
今の事態、多様性だ。
何か興味があるものがあるのならば
その興味に対して自分が歩んでいけば
賃金というものを得られるようになっている人も少なくないのである。

そういう意味では、今からでは遅い。

サボる

そう考えると…、遅いんだなあ…と考えていると
もうやっぱりどうでもいいよなあと
見てくれる人もいないしなあと
サボってしまう。

布団から出られない。
出られないからまあいいかとなる。
パソコンを引っ張り出して時間をつぶす。

う~んサボるのは、別に…悪いことではない気がするが…。
サボってばかりだと自分が変化しないわけだ。

もう俺は20代後半に入ってしまった。
昔描いていた大人とは全然違うよ…なんてセリフさえも
今や古臭くなってしまった今
行動ができない世の中で
俺は一体何ができるというのか。

在宅勤務って…

▽在宅勤務

在宅勤務にもいろいろある。
そもそも、新型コロナウイルス対策のために在宅しているか
場所に縛られない働き方として在宅をしているかで
結構その意味合いは変わってくる気もする。

もうそろそろ無職を辞める俺だが
最初は在宅勤務から始まるらしい。

面接から今に至るまで
すべてがインターネットを介して進められていた。
平成初期の生まれで就職活動をしたのが2017年
そこまで時が流れているわけでもないはずなのに
このネットですべて完結する感じには違和感がなくはない。

面倒くさい履歴書を手書きで書いてそれを送って
メールをもらって、暑い中、歩いて歩いて
立派なビルにたどり着く…あるいは立派じゃないビルにたどり着く
それが就職活動ではなかっただろうか。

▽そして今

インターネットですべての契約締結まで終わってしまった。
そして、勤務初日さえも在宅から始まるというのだから
なんだか実感がなくはない。
つまり、100日休んだ後、初日だというのに
俺は部屋から出ないということだ。

むしろ、部屋から出ることは禁じられている。
そりゃあそうか、勤務時間なのだから、禁じられて当然である。
それは高速時間なのだから。

▽コロナ?

新型コロナウイルス対策としてなのか、どうなのかは分からないが
最初に見せてもらった規則によると
カフェなど自宅以外の場所でテレワークを行うことはできないということだった。

新型コロナウイルス対策ならば
当たり前の話であるが
これが新型コロナウイルス前からだとしたら
ある程度、制限のあるテレワークなのだなあと感じる。

言い始めたらきりのない、就業に対する不安、不安。
肉体労働などは決して向かない俺なのだから
このような職にありつけただけでも非常にありがたいと思わないといけない。
幸い、俺には趣味というものはあんまりなかった。
そして、映像媒体で楽しむということはしても
なんだか、それがやってはいけないことのように感じられてしまって
(半ば、強迫観念のように)
一応、このようなブログを書くことや、勉強することに
時間を使うことが最近増えてきた。

恐らく高学歴になる人たちは
このような一種、習慣のように机に向かうことができるから
俺のような非常識ものではなくて
ちゃんと知識を身に着けていたのだ。

だから、幸いにも他人よりは使える時間が多い…と思いたい。
それとも普通の人間は趣味なるものを押さえつけて
理性で仕事のことに時間を使うのだろうか?

終わっちゃった…「キングダムハーツ」

今週のお題「やり込んだゲーム」

 



気持ち次第

世の中、ショート動画や倍速視聴があふれている。
そんなに時間を圧縮していったい何を急いでいるのだろうと思わなくはないけれど
一方でその費やしている先が、特にしなくてもいいことだったりして
結局、それはどう感じるかの、本人の気持ち次第なような気がした。

キングダムハーツ

昔、自分もゲームばかりやっていた。
1日10時間というのはゲーマーのなかでは大した数字ではないんだろうが
小学校、中学校を通して10時間もやっている人はなかなかいなかった。
走って家まで帰って、プレイステーション2の電源ボタンを押すと
ファンか何かの音が部屋の中にゆっくりとなり始めた。
どこかから拾ってきたテレビの電源をつけると
おおよそ30秒くらいかけて画面が徐々に表れてくる。
ゲームの始まりであった。

キングダムハーツ」は
ファイナルファンタジーでおなじみのスクエアエニックス
世界的に有名なディズニーがコラボレーションした作品である
というわりには知名度がめちゃくちゃ高いわけでもない気がするが
とにかく、当時はこれが好きだった。

小学校に入ると、しばらくはマリオワールドを俺は冒険していた。
イカと戦い、最後はカメと戦った。
そんな太陽の眩しい世界を冒険しているところに現れた
このゲームは俺に闇と光のコントラストという何ともカッコイイ幻想を与えた。

キングダムハーツというゲームは3になって現在
よく分からないストーリー展開をしているのだが
実際、1のストーリーはまとまっていて
全体的にちりばめられたミステリアスなフィルターが
世界全体をグローのように輝かせていた。

世界の終わりが近づいているころ
自分の故郷さえも闇にのまれた少年が
ディズニーでおなじみのドナルドとグーフィーとともに
さまざまなディズニーワールドを旅して
最後には闇を討つというお話である。

世界の終わり
選ばれし者

ライバル
ヒロインなど
マリオワールドでは味わえなかった要素が
次々と舞い込み、俺はその世界に夢中になった。

キングダムハーツは1以降もさまざまなコンテンツを生み出した。
キングダムハーツファイナルミックス
キングダムハーツ2」
キングダムハーツ チェインオブメモリーズ
キングダムハーツ2ファイナルミックス+」

ファイナルミックスという物語上はほとんど変わりないが
音声を英語にしてちょっと追加要素を入れるという商法に
なんだか変な感じはしたが、すでにファンとなり果てていた俺には関係なかった。
自分自身が世界を救うため、ゲームのスイッチをオンにした。

打ち止め

ゲームの手が止まったのは
キングダムハーツ2ファイナルミックス+」のシークレットムービーを見た時だった。
シークレットムービーとは特定の条件を(とても厳しい条件を)クリアして
エンディングを見たプレーヤーだけが見られるものである。
今ならばYoutubeで検索するだけで見られるのだが
当時の俺はパソコンすら持っておらず
ゲームの中の特定の条件とやらを満たすしかなかった。

レベル上げも、度重なる挑戦も行いその果てに
美麗な、そしてボリュームのあるムービーが流れた。

そして、その世界で果たすべき目標を失ったのだった。
そう、キングダムハーツは、「キングダムハーツ2ファイナルミックス+」を
発売して以降、しばらく間が開いた。


その次にリリースされたのは3作品である。
キングダムハーツ バースバイスリープ
キングダムハーツリーファイブエイトデイズオーバーツー」
キングダムハーツ コーデット」

驚くべきことに、この3作品はすべてハードが違った。
コーデットにいたっては携帯アプリだった。

俺の体も幾分か成長し、高校生になったころ
うち2作品をようやくプレイすることになった。

ナンバリングが2から3になっていないということは
3作品も出た割には、2の続きではないということである。
実際、時系列的につながっているのは「コーデット」のみで
ほか2作品は過去の話となっていた。

しかし、2作品とも俺の期待には応えてくれた。
DSをわざわざこのために購入した俺だったが
その粗い画質に最初は戸惑いながらも自分の頭で
声や画質を補い、どんな展開になるのだろうと毎夜想像して過ごしていた。
そして迎えたエンディングで胸を痛めた。

結末が既に決まっている物語があるのだということを
キングダムハーツで初めて知った。
どれだけ起伏があろうとも最後には自分の知っている状態にいきつくのだと。

そして、また物語は打ち止めにあい
数年の時が流れた。

一体どういうことなんだ
気色が変わってきたのは
その次にリリースされた「キングダムハーツ ドリームドロップディスタンス」からである。
この作品、とにかく分かりにくかった。
時系列的には、これまた
「2」→「コーデット」→「ドリーム(略)」になっているのだが
最初の辺りから何をしているのか分からない。

趣旨としては、夢の世界にいって鍵穴を…などと説明されているが
これまでのように全然分かりやすくないのである。

え?夢の世界って何?

友達を助ける!
闇を倒す!

…のようなダイレクトな目的ではなく
何かよく分からない目的のために旅に出た俺は
ダブル主人公体勢で物語を進んでいった。

因みにこの作品のハードも変わっていた。
3DSである。俺はこのために3DSを購入した。

終盤、主人公の片方が、もう一人の主人公の悪夢の中を旅していた…
そして服の紋様が表す通り、今回のエネミーたちと同じような存在になっていたのだ!
というような展開があるのだが分かりづらかった。
確かにおおっ!とはならなくはないのだが
ちょっと複雑で直情的ではないのである。

いや、考察のための頭を回していなくて
そこが浅はかだと言われてしまえばそれまでだが
これまでの作品群と比べて何か急に話の構造が入り組むようになってきていた。
そうして、次回作が3になるというところで、終わった。

最新作へ


スマホゲームでは最古の物語というものが
これまた展開されていたのだが
スマホゲームまでしない俺はどうにもファンかどうか既に怪しかった。

これまでキングダムハーツは、いくつものハードを渡り歩いてきた。
PS2
ゲームボーイ
PSP
DS
3DS
モバイル
スマホ

ディレクターは意図をもってやっているということだが
あまりその意図がファンに伝わっているかは微妙である。
そのところを察してか、3の発売前には盛大に
詰め合わせソフトが発売されていた。
これまでのエヴァ的な感じである。
そう、新劇場版Qからシン・エヴァまで時間がかかったのと同様
キングダムハーツも2から3までかなりの時間がかかっていた。

そして、発売された。

だが、俺はもうそれを心から楽しめなくなっていたことに気づいた。

美麗になったはずのムービーシーンや戦闘シーン
自由度のましたはずのキャラクターたちの動きが
かえって過去の作品たちよりも不自由に感じてしまうのはなぜだろうか。
ボスと戦えそうで戦えなくて、終わっていく各ワールドの物語に
煮え切らないものを感じるのはなぜだろうか。

そして、やはり分かりづらい物語である。
シンの十三機関なる敵の復活も急であったし
終盤の絶望も急であった。
伏線めいたものが数多く過去の作品にはあったが
その回収には多くの時間が使われず
どっちかというと新たな伏線のようなものがちりばめられ
「?」マークが俺の頭には浮かんでいた。

寝床で夢みていた「キングダムハーツ3」は夢にあふれていたが
反面、現実でこの手にある「キングダムハーツ3」は
何か、リソースが割かれていない未完成品のようで
俺は終盤も乗り切れない心のまま、エンディングを迎えてしまった。

過去作でバッドエンディングを迎えたキャラクターたちに救いはある。
だが、その救い方に雑なものを感じなくもなかった。

おまけに、クリアしたあとに「リマインド」なる
大規模ダウンロードコンテンツが出され
そちらには少し思い描いたような
過去の主人公たちの共闘があるというのだから
納得がいかなかった。
「リマインド」がリリースされたころ
もう、俺の手元に「キングダムハーツ3」はなかった。

もう俺は社会人になっていた。
時間がたちすぎてしまったのだろうか。
それは自分が?
それとも制作陣が?

変わらない昔の気持ちでいられたならば
キングダムハーツを楽しめたかもしれない。
だが、俺はまた大切なものを失ったようである。

失ってばかりの社会人生活の中で
そういうものさえも消えてしまったのだった。
ノーバディである。

現在は無職として絶賛ノーバディをしている。
ノーバディは毎朝6時に起きて
それからしばらく布団にもぐって気づいたら夕方になっている。

だが、間もなく8月も終わりだ。
そして、無職も終わりだ。

俺の夏休みは、終わった。

 

無職が100連休とった結果

 

 

課長、笑う

会社を辞めたあの日はものすごい遠い日のように思えた。
あまり計画性のない自分は
新型コロナウイルスによる自粛をも顧みずに
退職願を汚い字で、そしてインターネットから移した内容で書いて提出した。

「まあ、新型コロナウイルスもありますから延長しても…」
「フフッ…」

延長をほのめかすと、課長は笑った。
このやろう!と心の中でつぶやき、5月末に俺は会社を辞めたのだった。

無職になってから100日ほどたつ。
早起きをしていたが、その時間が尾所に遅くなり
太陽の光も早起きのアラームもどんどん、うっとおしくなってきた。
朝起きても、昼起きても構わないし、夜寝ても構わないし、夜寝なくても構わない。

いわば、俺にとっては人生2回目の夏休みなのだが
当の俺はまったく楽しくなかった。

なぜなら、自分にとってこれは許されざる休みだからである。
100連休の無職。
無職…。

ニート

世の中、フリーランスや副業を始めている人間は多い。
フリーというものやお金に縛られない生活をしている人間はいる。
だが、俺は無職。
定義上、かなり、ニートに近い。

精神的に向上心のない人間のことを定義上はニートと呼ぶのだ。
であるからして、俺は、ニートだった。

新しい部屋に引っ越していろいろなものを購入した
仲介業者に中抜きされるとわかっていながらも
いろいろなものを注文すると、どんどん使っているお金が
増えているのが、わかった。

健康保険と、住民税が、のしかかってきた。
払った。7万円なくなった。

もしかしたら、俺にとってたくさんの友達がいれば
コロナ禍をも乗り越える友達がいればちょっとは違ったかもしれない。
だが、そんなことはなかった。

東京の住まいから、1.2倍ほどになった、依然小さな部屋で
俺は画面に向かい続けていた。
眠ければ寝る。
食べたければ食べる、生活。

フリーランスはいい。
したいことができるから。
したいことがあるから。

独立みたいな方法もあるけれど
独立を俺が考えられるのならば
たぶんもう俺は独立している。

独立にはしたいことがある。
俺はしたいことがない。

したいことがある奴はいい。
人生にとって生きる糧になるから。
したいことがない奴は悲惨だ。
どこに向かっていいか、分からないから。

暗闇の中を進んでいるというよりは
何の導もない草原をさあ走れと言われているような。
周りには、進んでいっている人たちがいる。
その人たちは直接俺の目に見えているわけではないけれど
俺のイメージの中に存在している。

ホームパーティーゆるさねえ

かつては自分も人間関係があった。
今はもう見えない何かがあって別れてしまってけれど
素敵な面を切り分けて投稿するSNSは
彼らが無事に進んでいっていることを明示していた。

ホームパーティーをしている。
遊んでいる。
学んでいる。
ライスステージを上げている。

都合よく生きるならば死んでしまえと思いつつ
きっと自分だってそんな幸せを享受する立場になれば
また何も考えなくなるのだろう。

幸せな時の自分の指向は、停止している。
何も考えない。

100連休の中でさまざまなことがあったかといえば
そんなことはなかった。
思い出せといわれてもなかなか出てこない。

「今日特に何もない、すばらしい1にちだった」

日記にいざペンを向けた時に何も走るものがない時
俺は自分の何もしてなさに気づく。
また、一つ年を取ってしまった。

生物的な役割を果たせるのだろうか。
もしかしたら果たせないかもしれない。
もう、ダメかもしれない。

無職は思い悩んだ。
空を飛ぼうとした。

やっぱりeスポーツは受け入れられない

今週のお題「好きなスポーツ」

 

 

ぶるぶる

ニンテンドーロクヨンの箱を開けた時のことを漠然と覚えている。
俺の家に父親がまだいたころに、ニンテンドーロクヨンとコントローラーブルブルパックなるものを購入した。
選んだソフトは「マリオストーリー」といった。
ブルブルパックを装着したコントローラーはぶるぶると震えた。
その震え方は、まさに革命的だった。

その後、プレイステーションや、Wiiなど
さまざまなハードを購入しては遊んだり遊ばなかったりした。
時は10時間以上を1日のうちゲームに費やすことがあった。
面白かったのか、面白くなかったのか
その気持ちは俺には分からないけれど
とにかく俺は夢中だった。

そして、俺のプレイステーション3には
いつかホコリがかぶるようになっていた。
ゲームっていうのは、現実と比べるととても退屈なもののように思えた。

非Z世代

ぎりぎり自分は「Z世代」ではないらしい。
メディアが勝手に呼んでいるだけの世代で
正直1990年代生まれだからといって
若者にカウントされないわけでもないだろうと思いたいのだが
あの「eスポーツ」なるものがほかのスポーツと一緒くたにされるのは
正直どうかと思うのだった。

新たな価値観としてeスポーツの選手たちは
さまざまなところで顔を見せるようになってきている。
少し前には新型コロナウイルスに対する政府の政策に対して
意見をものもうす場においてeスポーツの選手が
当たり前のように顔を出していた。

スポーツ…か?
俺は定義上スポーツがどういうものとかそういうことは考慮していない。
これまでの一人の人間として、俺の人生において
スポーツがどういうものだったかというところが実際重要なのである。
人生という大量の情報の中からスポーツというものの存在の
その輪郭を浮かび上がらせてみる。

スポーツ

「スポーツ」。

幼稚園では優しい人がモテる。
小学校ではスポーツのできる人がモテる。
中学校では…忘れた。
高校では頭のいい人がモテる。
大学では自立した人がモテる。
社会人では金を持っている人がモテる。

…という。

小学校でのスポーツ至上主義は一部を除いて絶対的だった。
ゲームというのものの扱いは
ある種、確かに、コミュニケーションツールとしては機能していたが
スポーツに勝るものはなかった。

サッカーをすれば、周りに認められる。
何もなかったところに会話が生まれた。
団結が生まれた。

そうスポーツは、光だった。
そうゲームは、影だった。

影は影なりの楽しみ方があった。
何か疲れているときにその世界に自分を反映させ、悦にふけるという
自己完結的な、自分自身の世界で楽しむような行為。

画面の前の自分は少しも成長してなどいない。
それが現実世界の自分に対して
フィードバックを及ぼすことはなく
世界を救ったとしても、明日の成績が確実に落ちていることは
もはや、否定することのできない真実だった。

絞り切った雑巾さながらの自分から
夏の大会という、謎の存在が汗を搾り取っていった。
日焼け止めを塗らないまま太陽に焼かれ、弱い皮膚は赤く腫れあがった。

自分は実力不足からフェンスの向こうでそれを応援するばかりだったが
スポーツをして、スポーツを続ける彼らがうらやましかった。

どうしてだろう。
夏の暑い部屋でコントローラーを握る汗よりも
対戦相手をどう攻略するのかを考え、努力する汗が
光って見えているのは。

理屈ではなかった。

ゲームでいくら相手をぼこぼこにしても満たされない何かが
現実世界のあちらこちらに罠として存在していた。

これは非Z世代の常識なのか。
これが…古い価値観なのか。

常識なんていうものは
偏見をかき集めてフレームワークのように固めたものの一つに過ぎない。

それでも、eスポーツ
お前は、スポーツではない。

そこに輝きなんてものを感じないからだ。

勉強できる才能

 

才能

勉強する前から、なんとなくやっていれば
その物事ができるようになる。
これも才能。

勉強し続けて、努力することで
それを会得することができる。
これも才能である。

本当に才能のない人間は、そもそも勉強しても分からないし
勉強を続ける力すらも、そもそもないのである。

少し前には、いわゆる
ぎりぎり健常者で障害という認定すらもらえない
「ギリ健」というものが問題になった(自分の中で)。

こういう境界線に立っているような
中途半端さがなかなか際立って
生きづらいなどと訴えがちなのである。

努力してできるようになった人間は、えらい。
恐らく努力しなくてもできる人間は
最初から与えられているようなもので
そこはまた別の世界という切り取ってもいいのであるが
努力してできる人間と、努力してもできるようにならない人間は
かなり、グラデーションを描きながらも同じ世界に存在している。

じゃあ、お前は本当に努力したのかよ!
俺はできるようになったぞ!

…と、真剣な顔で彼らは語っているのであるが
それならば同じレベルまで相手を引き上げる力が
本当にあるのだろうか。
恐らくそれはないのだろう。

我々は、努力しても、身につかない民。

勉強をすると本を投げつけたくなる。
DIYで一生懸命作った机をバシバシとたたき奇声を上げている。
こんな姿は人に見せられるものではないなと思い
また自己嫌悪に陥るのだ。

 

PDCAを回せ

P:プランするよ
D:ダメだったよ
C:クレイジーになるよ
A:暴れるよ

PDCAサイクルを回す。
結果的に部屋が汚くなっていく。
机を置くことに成功したのはいいのだが
結果としてはベッドを置くようなスペースがないことに気づく。
ああ、セミダブルベッドは身の丈に合っていなかっただろうか。
例え廊下から妙なにおいがしていても
あまり気にするべきではないんだと思う。
だって、もう引っ越し作業をするのは面倒くさい。
引っ越し業者に頼めば比較的楽に終わることは分かってしまったのだから
次はお金を払ってでも楽なことをしようと思う。

才能が欲しい。
あるいは才能よ、目覚めてほしい。

正しく導かれる期間は終わったのかもしれない。
俺はまだ人を導けるような器を手に入れていなかった。

今日もPDCAサイクルが回る。
できない。

どうして俺は、できないのだろうか。

その男はどうして意識低い系を目指すのか

 

 

その男、意識低い系

意識高い人たちが世の中に露出するようになってから
大体10年くらいが経過したと思われる。

どうしてか、その影響もあって学生のうちから
意識高い人たちも現れるようになってしまって
俺は、そういう人たちを見る運命にあった。

今回のタイトルを考えてから
俺はインターネットで「意識低い系」を検索してみた。
すると意識低系を自称するような記事が
あふれえてくるよ、あふれてくるよ、俺は激怒せざるをえなかった。

「タイトルを考えてから」とはいえ
俺はブログを書く時に
全体の構成を考えたりSEO対策をしたりはしない。
タイトルを考えてからインターネット検索をするときまでに
数秒であるし、文句を考えるのも数秒である。

だから、意識低い系を自称するような記事を
みつけて、そこから怒りが沸き上がるために参照したソースは
せいぜい2~3程度のもので
こんなことで怒っていいのならば
ポリティカル・コレクトネス。

そんな俺が目指すのが意識低い系
意識低い系なのだ!

意識低い系とは

意識低い系」で検索して出てきた
トップの記事は、このようなタイトルをしていた。
意識低い系エッセイが教えてくれた自分らしい働き方」
ばかやろう!
意識低い系がエッセイなんか書くか!

その次がこのようなタイトルをしていた。
「こだわりを脱ぎ捨てた私が
 意識低い系のまま
 キャリアカウンセラーで活躍できる理由」
ばかやろう!
意識低い系が英語ができるか!

俺は怒っていた。
もはや、意識低い系を「意識」の高低とか
スキルとか、態度とか、マインドだとかと勘違いしているものたちに対して。

意識低い系は、その在り方すべてを指して言うのである。
例えば、意識低い系はあらゆることができない。

文章が書けない。
挑戦すれば失敗する。
アピールしても無視される。
連絡しても無視される。
スキルはなく、コネクションもない。
恋人はおろか、友人もいない。
何も考えていない思想はない。
そこには自分の正義も意思も存在しない。

嫌悪

意識低い系に吸い込まれるように
その在り方について惹かれているのは理由があった。

大人気漫画を読むのではなく
打ち切り漫画を愛してやまないように。
俺は単に逆張りを、何も得しない逆張りをしているわけではない。
それはとてもとても意識高い人たちへの嫌悪感が
俺の中に満ち満ちしていることが原因だと思われる。

意識高い人々に出会ったのは大学生のころだった。
大学という場所にはさまざまなコミュニティが存在し
出会わない人は出会わないし、交わらない世界がそこには存在している。
なぜかは分からないが、一生庭でジャグリングをしている人たちもいるし
論文を書いている人もいれば、大学近くの下宿で一生イチャイチャしている人もいる。
それらの世界は交わらないし、俺と意識高い人の世界も交わらないはずだった。

授業は出なくてはいけない。
だが、俺は自由単位の対象である授業を選択し
そこにいたのが意識高い人、すなわち学生スタッフである。

スタッフ!
何て、嫌な響きだろうか、スタッフ。
学生なのにスチューデントではないんだというその態度に
俺は非常によく分からない物を感じた。
スチューデントの綴りってstudentで合ってるっけ?

とにかく先生と学生の間に…
とにかく、が回末位よりも一歩上をいっているかのようなその態度に
俺は怒りを隠さざるを得ないのだ。
その怒りは実を言えば妬みのようなものに近かった。

そうして、なんやかんやあって
俺は学生スタッフになっていた。

自分の意思が半分、外的な要因が半分。
どうしてそんなものをしないといけないのか。
どうしてそんなものを望んだのか。

そうして意識高い世界に関わっていくと
なんとも同じような言葉が空間を飛び交っているのが見えた。
「留学」「TOIEC」「ワークショップ」
インターン」「地方創生」「ボランティア」…
君たちには何が見えているというのか。
その世界は広いんだろうけれど、俺にはとても狭く見えた。
きっと、相対的にも絶対的にも俺のいる世界のほうが狭いんだろうけれど
その意識高いの世界にはきっと自分の居場所がないんだろうと
自分の奥深くに凝り固まって、澱のようになった思いが叫んでいた。

ああ~やだやだ~。
俺は走って逃げた。
顔面は蒼白で、顔は真っ青で、顔におしろいを塗った。

寝たふりをした。

就活が始まると、意識高い、という何かわけのわからない恐ろしい者は
もっと駆け足で俺のほうに迫ってきていた。
そうして俺も来るなら来いと意識の高いセミナーや
講演会などに足を運び始めた。

「人材ではなく人財と書きます」

何が違うんですか!?

まるでYoutuberのようなジャスチャーを駆使しながら
踊るようにプレゼンテーションを行う人々。

「君たちには光るものを感じないな」

ジェルでがちがちに固めた髪の毛で
足を組みながら就活生を一蹴する社長。
あなたは一体何者なのか。

「こいつらレベル低いって思ったんだよね」

営業成績ナンバーワンで
地元の愚痴の飲み会のレベルの低さに
飽きれてしまったシックスパットの営業。

学生のみが足を運べるというラウンジにいる自分。
おしゃれな音楽、ドリンク無料のスペース。
それでいて、ない内定。

実力が伴わず、意識だけが高まっていく感じ。
まだ…まだ上がるのか意識…。

そうして俺の意識は崩壊した。

何をしていたんだろう…。
そして彼らはやっぱり何をしているんだろう…。

よく分からない横文字や
涙の出そうな顔で語られるパフォーマンスの数々に
何かむなしさを覚えた。

自分がなりたいのは本当にこういうものなのだろうか。
そうしてなぜ自分は社会的に彼らに負けないといけないのだろうか。
意識低くなりたい。

意識が低いまま、意識の高い奴に勝ちたい。
そうして、意識の高さなんてものが何の役にも立たないんだと教えてあげたい。
そういうことができないのだろうか。
できないのだろうか…。