白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

コロナ禍で辞めた男が転職活動に挑んだ結果

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

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プロフィール
名前:白みかん(仮名)
性別:男性
学歴:関関同立の最底辺を卒業
職歴:300人規模の中小企業で(定義上は大企業だが)
   ものすごいマイナーな業種を担当
   3年目の年収400万円
特技:タイピングが遅くない
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転職活動が終わった。
7月9日。

特に何でもない日だったが
俺はしばらくニートのような生活を続けていた。

起きて、食べて、眠くなったら寝て
時間をつぶすために普段はしないゲーム機を引っ張り出して
大乱闘スマッシュブラザーズに興じるくらいにはニートだった。

そうして、夕食に最寄りの焼き肉店に連れて行ってもらっていたその時
俺の(普段はあんまり活躍しない)携帯電話が鳴った。

俺の転職活動が終わった。

転職活動から解放されたことで
ようやく俺は転職活動というものの
振り返りを書くことができるようになった。

現在時刻は11時30分ということでまだまだ時間はある。
いつもは途中で文章を書くことに飽きてしまうけれど
今日は頑張って最後まで書きたいと思う所存。

では、時系列を前の会社の最終日まで戻してみたいと思う。
これで俺は転職活動のすべてを振り返れるはずである。

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○5月21日(最終出社日)
この日、俺は会社を辞めた。

正確に言えばそれは俺にとっての最終出勤日だった。
集合写真をチームで撮影するという夢は新型コロナウイルスのせいで
達成することはできなかった。
それ自体は悲しいことなのだがしかたない。

正直、最終出勤日だというのに電車が遅延してしまうところに
俺は俺らしさを感じていた。

この会社で超絶マイナーな○○制作という職についたのは3年前のことである。
当時の自分は混乱していて、いろんな職業を受けまくった末に
サークルの先輩の紹介でその会社を受けたのだったけれど
正確に何がしたいという欲望がなく
ただなんとなく自分がその時にしていた活動とこじつけることができるから
というあいまいな理由で最終面接を突破した。

そこからの日々は新生活ということで苦労したこともあったし
自分の人間関係はズタズタなうえに
土地が離れたことや新型コロナウイルスが蔓延したことで
希薄になってしまったけれど、一方で仕事をしている自分は
徐々に成長はしていた。

○○というマイナーな職の中でも
より厳しい○○に取り組み
はきそうなくらいに緊張して
優しいはずのチームリーダーにもイラつかれはしたが
それでも全体的に恵まれた若いチームの中で仕事に取り組むことができた。

傍らでは会社のチームのリーダーに挑んだ。
そこでそうすることが、なんとなく自分の運命のように思えたからだ。
そうして格好良くリーダーになったものの、ミドルな社員には会議の場でさげすまれ
同期社員にも呆れられるようなスタートだった。

そんな功績と運が味方したのか、社内で一人だけが行くことのできる
海外研修(費用会社持ち)に選出された。
パスポートも会社負担で発行され
ラスベガスやシリコンバレーで初海外と決め込もうとしたところ
飛行機が発つ日に台風が直撃し、俺の初海外は夢に消えた。
だが、会社は俺を見捨てなかった。
再び海外の会社と日程を調整し、リスケジュールの末にワンモアタイム
そしてやってきたのが、新型コロナウイルスだった。
俺の初海外はやっぱり、夢に消えた。

書き連ねていけば、きりのない社会人生活の思い出は
しかし、最後の日に特に想起されることはなかった。
最後まで説明の浅さが災いし、渋谷支社に行ったり
本社に行ったりと俺は振り回されている気分だった。

同期社員が休職しかけていて心配だったけれど
俺はどっちかというと自分のことを心配したほうがいいと
心のどこかでは理性的にわかっていた。

最後にさんざん苦しめてくれた上長にフフフと笑みを投げて
俺は会社を後にした。
さらば、会社。

返却した社員証の下には
研修時代にもらった、簡素な紙の名札がまだ残っていた。

 

○5月末(散歩)

1つ目の会社の最終出社日を終えた俺がしたことは
賃貸の処理と、とりあえず転職サイトに登録することだった。
一応、転職のためにYoutubeで参考になりそうなものはないかと思って
何やら動画を探してみると、冒頭で「私はホワイトに転職した!」と大声で叫ぶ
イラストメインのYoutuberが出てきた。
彼も同期社員も、やはりエージェントを活用することをおすすめしていたので
俺は転職エージェントなるものを利用することに決めた。

たぶん、これで合っているはずだと
俺はリクルートエージェントと、パーソルキャリアdodaを登録した。
ほかには通常の転職サイトもいくつか登録した。
新卒の時の就職活動でも使っていた会社の評判をチェックするサイト
Openwork(昔はvorkersみたいな名前だった)を再登録した。

しかしながら転職活動よりも先に
まずは東京を後にしないといけない。
俺は賃貸の人の立ち合いと引っ越しの運び出しを
同じ日に設定し、あわただしく賃貸を追い出された。

そして、その日から歩き続けたり
やはり歩くのは面倒くさくなって公共交通機関を使ったりして
田貫湖にたどり着いていた。

そこで富士山を眺めて、逆さ富士スポットから逆さ富士を撮影した。
一人だった。
誰かときたらもう少し面白いのだろうかと思った。

 

○5月末(治療)

100㎞近く歩いただけで足はもうボロボロだった。
学生時代も同じくらいの距離で2日ほど歩けなくなった。
自宅に帰ったあと、俺は数日間を足の治療という名目で
ただ漫画を読んだり寝転んだりして過ごした。

それは3年そこそこしか働いていないが
とりあえずやり切った自分への休暇のような扱いだった。
自宅にはWi-Fiがないので、そもそも転職活動のやりようがなかった。

5月の末にリクルートエージェントとのweb面談があった。
俺は梅田のレンタルスペースを借りて面談に挑んだ。

担当のIは体育会系の髪形をした男だった。
俺に質問し回答すると必ず「そうなんですね。」と相槌を打った。
たまになら構わなかったのだが100%「そうなんですね。」がつくことから
ちょっとイラっとする時間が続いた。

エージェントとの面談では前職でしたことや
これからしたいことなどを話した。
それをもとにエージェントもマッチする求人を探してくれるらしい。
確かにこれはいいサービスだと思った。

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○6月1日


6月に入ったということで
俺は新しい場所に身を移した。

そこは父親の事務所の倉庫だった。
ここならば電波も拾えるし
使われていない間は、事務所の応接室も使うことができる。
洗面台やお風呂などはないが、最低限の生活スペースがある。

俺は転職活動を本格的に始めた。

 

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○6月転職活動 序盤


パーソルキャリアdodaのエージェントSと面談を行った。
SはIと比べるとフランクな口調で話した。
あとから聞くとハーフらしい。
一度だけZOOMで会話したが日本人っぽい顔立ちをしていた。

Sが言うには転職活動というのは
「その次を見据えた転職活動」というのがあっていいということだ。
例えば、俺の前職はITだがやっていたのは○○である。
○○というのはサービスの提供で、やっていたことも
特別ITスキルが求められるものではないし、その価値も伝えづらいところがある。
よって、未経験IT求人に募集することになるのだ。

ITの求人でいい会社を志望するのは、なかなか難しいらしい。
大抵の会社では求人の条件として「AWS経験3年以上」「Java開発経験5年以上」など
それなりの経験を前提としているものが多い。

その数字を埋めるためにまずは劣悪な環境でもいいので
会社で働いたという実績を積むための転職があったもいいということだ。

なるほど、と俺はうなずいた。
そう考えると前職はIT企業であったので
部署を移動させればインフラエンジニアにもアプリケーションエンジニアにも
なれる可能性は全然あったのだが…。

「うわああ、やってしまったかああ」

面談を終えてその結論に達した俺は一人で
膝を抱えて、丸くなった絶望を孤独に抱え続けた。

俺は転職サイトには登録していたものの俺は自分から職を探すことはせず
ひたすらエージェントから送られてくる職を洗うということをしていた。

エージェントがマッチしたと思われる企業群を送ってくるので
俺はそれを回収し、openworkで検索するのだ。

途中、その作業が面倒になってpython
seleniumを使ってスクレイピングするやり方で
評価の回収を自動化してExcelに出力するようにした。

だが、俺の未熟なプログラミングでは結局、あまりうまくいかず
途中から出力されるデータが文字になってしまったり
会社名がかぶってしまったものがあったりして
うまくいかなかった。

ひとまず会社の評価が3.0を超えているものを中心に
詳細を見ていくことにした。

応募ボタンを押すと
そのエージェントのサイトで作成した
電子職務経歴書が相手の企業に送られ
書類選考が開始されるという寸法だ。
つまり、そもそも紙媒体を使うことなど想定されていない。
なんと、俺が就職活動をした2017よりもずいぶん進化しているではないか。

思い出せばIT企業なのに履歴書を印刷して持っていったら
「こんなことして、失礼にとられるの、わかってるよね」
と言われたことを思い出した。

「お見送り」

お見送りの文字が立て続けに自分のメールボックスに届く。

「そうなんだ、お祈りじゃないんだ」

俺は静かにその事実を受け止めていたが
途端に書類選考さえまったく通らないということに
無力感を覚え始めていた。

学歴上はあまり問題ないとエージェントから言われていたが
やはり未経験求人であったも何かを見ているようで
俺の経歴はその会社が求めている水準に達していないのか
全く書類選考に引っかからないのだ。

俺はSが言っていた
「劣悪な会社であっても経験を積む」を
検討し始めていた。

そして俺はOpenworkの3.0を下回る会社にも
いくつか応募ボタンを押した。

そういえば、ちゃんと体に合うスーツを持っていないのも心配だった。
新卒の時も卒業式の時もスーツは俺の体に全く合っていなかった。
家にある適当なものを着ていただけなのでしかたないのだが
お金がそこそこある今ならば買えると思い
俺はオーダーメイドスーツをディーラーと相談したうえで注文した。
受け取れるのは半月後になるらしい。
いつ、面接できることになるかは分からないが
間に合わないような気がした。

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○6月転職活動 中盤


新しい場所に生活基盤を移すことによって
関わる人間もようが変化した。

父親の会社の社員とも触れるし
父親の息子とも触れ合った。
そして、現在の奥さんとも話した。

複雑な気持ちはあったが、それと向き合うような
過剰のリソースは現在持ち合わせていないので
俺はその辺の感情にはふたをした。

同時に俺にはしたいことがあった新しい賃貸を見つけることである。
もちろん、こんな洗面台もないような場所に長居することはできない。
そして、やはり電波もないような実家にいることもできないため
俺は大阪の賃貸を探すことにした。

職を探しながら、賃貸も探すのである。
俺は内覧をして、大阪の天王寺辺りを自動車で回った。
運転していたのはOという超体育会系の男だった。

賃貸の処理と転職活動の両立は
結構、おすすめできるようなものではなかった。

Oは営業トークからか、やったほうがいいですよと言ったが
あっちからもこっちからも電話がくる上に
賃貸の書類提出もせかされるので
俺は気が気ではない思いだった。

やはりほとんどの企業は書類選考で見送られていたが
3.0より下で応募ボタンを押した企業から
一次面接への招待が来ていた。
場所は梅田。
転職活動を始めてから1回目の面接である。

俺にとっては久しぶりの面接であったが
一応スタンダードな面接の項目については
あらかじめ用意して練習を行ったうえで臨んだ。

マスクを着けていたからか、こちらの表情は一部相手に隠れており
なんだか昔やった面接よりも話しやすかった。
選んでくれた企業は、前の会社に雰囲気が似ていた。
通してもらった会議室はビリアードやゴルフの道具が置かれていて
ファミリー感の強い会社だった。

「君、お酒飲める?」という、印象の良くない質問が出てきたので
ちょっとだけ表情が硬くなってしまったが
終始、俺は面接官一人一人と目を合わせながら質問に回答した。
面接終了から10分もせず二次面接の案内をもらったことから
少し面接に対する自信を持つことができた。

とはいえ、やはりその会社に移りたいのかといえば
それは前の会社と変わらない気がした。
変わらない雰囲気の中で得られるものは職歴と
そして大阪で働けるということだけである。
それで、本当にいいのだろうか?

賃貸の契約もやっているが、本当にはたけるのか?
間に合うのか、俺は…。

自分にマッチする企業を探す中で
俺はまたしても混乱し始めていた。
謎の契約社員にも目を通し始めており
名古屋の企業に「まだ募集していますか」と電話をかけ始めた。

6月の10日を過ぎたころ
俺は3つの会社の書類選考を突破していた。

1.前の会社よりも少し人数の少ない
  雰囲気が似た会社
2.かなりの大企業
  ちょっとこの前よくないニュースになった
3.なぜか求人出してる超大企業

3に関しては、なぜ求人を出しているのか
イマイチわからなかったが、俺はとりあえず応募ボタンを押していた。

書類選考の合否は一時保留にされており
その後、なぜ、この仕事をしたいのかを尋ねられたので
俺はメールの文面でそれを回答した。

別にその仕事が特別したいというわけではなかったが
募集要項に載っていた仕事内容は
今まで聞いたことがなかったものながらも
とても面白そうに俺の目には映った。

そして、そのフェースも突破すると
今度は玉手箱なるものが俺の目の前に現れた。

 

○6月転職活動 中盤2

6月の俺がちょろちょろと気楽に動けていたのには理由がある。
それは俺が有休消化中であったからだ。

ゴロゴロしたり、記者会見の仕事に見学に行ったり
賃貸を探したりしていても
その時間は本来俺は働いている時間であった。
だが、当然権利としていただいた有休を消化しているだけなので
気楽に過ごすことができていたのである。
それでも、1か月余りあったはずの有給が
徐々に少なくなっていくことへの恐怖は、もちろんあった。

そして現れた玉手箱。
これに関しては存在くらいは聞いたことがあった気がする。
確かSAPの類である。

きたからといって、じゃあやるかと突っ込めば
撃沈することはわかっていた。
数学と国語と英語が出題されるとあったが
久しく本格的な問題など解いていない。

俺はYoutubeの玉手箱先生の動画を
しばらく眺めていた。
とりあえず難しいということだけがわかり
テスト問題を受けられるというサイトを尋ねてみると
正答率20%と出た。

この玉手箱というのは問題がそこそこ難しい割には
制限時間が極端に短いのだ。
解けない問題ではないが、高速で解く必要がある。
それが焦りにつながり、焦りは思考能力を奪うのだ。

とはいえ、俺は早く楽になりたかった。
確か1日くらい勉強したあと、俺はもう玉手箱の問題を開けてしまった。
英語はなかった。
数学と国語と性格診断のみがそこにはあった。
英語にも大した自信はなかったので、俺は勢いで玉手箱に挑んだ。

俺は叫びたくなった。

数学は予想より難しく時間には間に合わなかった。
国語も「これはどっちともとれる」というような問題ばかりで
俺は混乱に混乱を重ねた。

性格診断のようなものだけは正直に回答を重ねた。
俺、芸術嫌いすぎじゃない?というほど
「芸術や音楽が好きだ」に「いいえ」をつけることになったが
新卒の時からこれがどういうふうに活用されているかを
実際に見たことがないので
そのメカニズムについては分からないまま、俺は正直に答えるしかなかった。

これは、落ちたのでは…と思った。
俺は…玉手箱を突破していた。

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○6月転職活動 終盤


受けていた中で第二志望としていた
かなり大きめの企業は
パーソルキャリアと関連していたため
面接に関係するサポートは手厚かった。

面接官の経歴は立派なものであり
なんだかうさんくさい講師がよく言っているような感じのものだった。
人間、あまり主張しすぎるとうさんくさいものである。

そんなことを思っていると、俺は落ちた。
一次面接で、第二希望は撃沈してしまったのだ。

その一次面接はweb面接で
その日には第一希望の超巨大企業のweb面接も同時に合った。
正直、頭がこんがらがる思いがしたが
無事、2つの企業が自分の中で混じって
素っ頓狂な回答をしてしまうということはなかったので
安心していたけれど。

そのメールは俺にまあまあ大きなダメージを与えた。
その時近くにいた人に泣きつくことにした。

とか、そんな甘えたことは言っていられず
6月も最終週になっていた。

有休消化も残り少ない。
奇跡的に?第一希望の企業の一次面接は突破していた。

つまり、最終週に残っていた
俺の転職活動第一群の3社は第一希望と第三希望の2社になってしまっていたのだ。

その週の最初に挑戦することになったのは第三希望の会社である。
わざわざ会社に行って、その中でリモート面接をやるのは
いまいち要領を得なかった。
会社の代表との面接になり、その会社がフランクな方だったので
やはり前の会社とダブった。

前の会社の代表も自分をブラボーと自称する妙なキャラクターだった。
嫌いではなかったが、あまり関わる機会もないまま終わってしまった。
質問の時間が意外と長く
書いてきた2つの質問では到底時間が埋まらなかった。
俺はその場で会話をするように質問を考え続けた。

そして、少し間があって水曜日に第一希望の面接が入っていた。
それはちょうど6月の終わり、6月30日だった。
つまり俺が正式に前の会社の所属から外れる日である。

俺はその日の朝
注文していたオーダーメイドスーツを取りに行った。
確かにちょうどいいサイズだった。
これがジャストサイズか!
めちゃくちゃ感動したわけではないが
これが本来の形だなあというしっくり感が漂っていた。
Yシャツは自前のものしかないが、恐らく大丈夫だろう。
そもそも最後はweb面接なのでそこまでスーツがみられることはないだろうが…。

19時からという遅い時間だったため
俺はその日の昼からずっと部屋で面接対策をしていた。
面接対策と言っても一次面接の内容を書き起こしたものと
整合性がとれるように、基本的な想定される質問内容と
ただブツブツ部屋でしゃべるというものだった。

こんなもので本当に対策になっているのか分からないが
ちゃんと横にいて教えてくれる人や
特に面接に強い先輩などはいないため、自分でやるしかなかった。
父親の会社の面接は10分程度で終わるらしくあまり参考にはならなかった。

さて、ブツブツと独り言をいうのも疲れたころ
東京でもらったレモン味のアメを口に2~3粒含ませて
俺は面接開始に備えた。
ZOOMの接続によっても、その面接のパフォーマンスは左右される。

今回の転職活動で初めてWEB面接をやった気がするが
見ている場所はカメラなので、あまり
面接官の表情から反応を伺えないのが俺にとっては逆にデメリットだった。
何のために大学時代に目を見る練習したのか…。

そして、一次面接のときは相手の音声が小さすぎて
聞くのに苦労したので二次面接の時もそうだったら
絶望だなあという気分だった。

そうこうしているうちに19時になり、面接は始まった。
一次面接より深く質問がきたが
一応、独り言ブツブツ練習の中に含まれていた質問事項であったため
俺はなんとかそれにこたえることができた。

そして、時間を調整して20時ぴったりに終わらせた。
これに関しては俺がそう思い込んでいるだけで
もしかしたら面接官の方のほうが調整していたのかもしれなかった。
社会人は時間をコントロールするのがうまいのだ。

俺は、ソファーに倒れた。

俺の転職活動第一群はすべて終了したのだ。
ここまででひと月。
知り合いのオータムマウンテンが1年半の転職期間を設けており
また、自分の大学時代の先輩も1年以上
ふらふらと職業訓練所に行ったりアルバイトをしたりと
やっていたので、そんなことをしたら自分の精神はいかれてしまうと思った。

 

○7月転職活動 エピローグ

転職活動における課題、選考フローはすべて
6月という有休消化期間に収まったため
俺はニート生活を始めることになった。

実際にはほかの求人を探してもよかったのだが
パーソルキャリアの担当エージェントから紹介される
求人数は明らかに減っていたし、評判もイマイチの企業が増えていた。
このころになるとリクルートエージェントは
反応もなくなり、見捨てられた感が強かったので使っていなかった。

第一群がダメだった場合は、どうやって続ければいいんだろう…と
不安が脳裏に積もっていったのだが俺は無視することにした。

後輩と岩盤浴に行ったり
とにかく「コロナ 転職 難しい」など
インターネットをサーフィンする日々だった。

岩盤浴こそ行ったが、基本的には
自粛の日々を送っており
それでかつニートなので、精神は徐々に疲弊していた。

最終面接を行った時からすでに1週間以上が経過していたが
どちらの企業からもなかなか返事がもらえず
アベマプライムで「転職」というキーワードを入れて
とにかく社会派の議論を見て回った。

先に返事らしきものが来たのは第三希望の企業だった。

エージェントの話によると
「ぜひ取りたいが、ほかの企業と迷っているなら…」と
内定を出し渋っているそうだった。
え~、と思ったが、その翌日に布団で転がっていると
実家から電話があり、その会社から内定通知書が届いているそうだった。
つまり、正式にその会社に入る権利を俺は勝ち取ったのだった。

この時点で第一群から漏れ出すことはなく
俺はとりあえず就職することが確定したのだ。

そうなっても俺はモヤモヤしていた。
というのも、第三希望の企業と第一希望の企業では規模が違いすぎるのだ。

人間、欲は尽きないものである。
だが、俺だって、たぶん大学時代の知り合いがいなければ
こんなことは思わなかっただろう。

自分の周りは優秀だった。
同期の中には学生からの人気がナンバーワンだった企業から
内定をもらい、夢をかなえたとばかりに胸を張って卒業していった。
そして、後輩は世界的な外資系企業から内定を手に入れ
これまた目標を達成したという(よろこんでいるのか?)顔で卒業していった。

それに比べて自分はどうだろうかと。
やはり、自分はサークルという共通点がなければ
彼らと肩を並べるにも足りないような矮小な人間なのではないだろうかと
彼らと会話していて自分が劣っていると感じないことはなかった。

どうしたら追いつけるのか。
どうしてみんなはそんなにすごいのかと。

だから、母数の大きい集団でもっと自分を成長させたかったし
ブランド的な面でも彼らに胸を張れるような自分になりたいと思った。

少なくとも、俺は前の会社では評価してくれる人がいた。
もっと頑張れるよ、と期待してくれた人たちがいた。
たぶん俺を面倒だと思う人がいる反面、きっと遠くから期待してくれる人だって
ちょっとくらいはいるのだろうと思いたいのだ。

だから、彼らが口に出すような「自分」を現実のものにしたいと
思わずにはいられなかった。
第一希望の企業に入ることは、自分が「自分」たりえる一番の近道だと思った。

それを達成するための方法が
あんな部屋の中でブツブツ言っているだけというのなら
それはちょっとどうなのかという気持ちにもなるのだけれど
これまでの3年間が、そこにつながるのならば、あんな日々にも価値があったのだと思う。

大きな企業だけに福利厚生もあり
将来的に家族になることを想定しても
メリットはたくさんあった。

そんな想像をして、受かった未来と落ちた未来が
波状のように自分の頭の中を襲った。

そして、7月9日になった。
俺は小さくこぶしを握り締めた。