白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

〇の会



SNSのつながりは目には見えない。

いわゆる、オンライン飲み会もラインにおけるチャットも
もしかしてすべては自分の妄想で
俺はただ何も映っていない画面に向かって何かを投げかけているだけじゃなんじゃないかと思う。

昔の自分もそうしていたことをなんとなくこの新型コロナウイルスの状況で思い出した。
自分の中の違う自分を形成して、それで遊ぶという遊びは…何ともつまらないものだった。
成長すると自分の中にある想像力というのが弱くなる。
これは朝日新聞に勤めているサカナクンという男性も言っていたので
「うんうん、間違いない」と俺は思った。

あるいは、鏡に映った自分をボーイフレンドにしていた女性も
何かそんなことを言っていたので「うんうん、間違いない」と俺は言った。

大学を卒業してから3年経過した。
テロップで3年後と表示してくれてもいい。
俺は3年たっているというのに見かけがちょっと小汚くなっただけで
あまり成長していなかったように思う。
というか、現在、成長をお見せできるようなものは何一つ持っていない。

その中で失うものも多かったが、新しく生まれたものや得たものがないわけではなかった。
大学の後輩でもなく、では何の後輩と言われればそれも分からないのだが
とにかく神戸を中心として活動していた何らかの団体の後輩たちとのつながりがそこにできていた。
そうしてそのつながりは、新型コロナウイルス感染拡大以降にできたものという不思議なつながりだった。

SNSのつながりは目には見えないといったが
じゃあ、何のつながりなら目に見えるのだよと問うと
確実につながるものを現実から見つけ出すほうが難しいのだと悟った。
じゃあ、SNSのつながりでも大抵のつながりと変わらないじゃないか。

毎月のようにビデオチャット?を設けて、もう13回目になる。
在学中にはかかわりの薄かった人たちであったが
どういうわけか、今回のつながりが続いていた。

…と同時に怖くもなった。

人とのつながりは心を豊かにする。
人とごはんとごはんをくっつけるようなもので
巨大化したごはんは、離れる時に思った以上にこちらの体積をうばってしまう。
別にたとえはごはんじゃないてもよい。

4年間以上続いていた密なつながりが絶えてしまった時
心を支えていた最後の柱が折れた。
3年前にあった心の支柱みたいなものがすべて折れてしまった自分としては
続いていくつながりが温かくもあり、怖くもあった。

あけすけに自分をそこに浸してしまえば
きっと、もう少しその場所を幸せに感じられるかもしれないけれど
その場所がなくなった時、自分はどう生きていけばいいのかまた分からなくなる。

これを現代を生きる職業人らしく書くと
主収入と副収入の関係になぞらえることができると思う。

無期雇用が生涯雇用だとは限らない。
自分が所属している先を分散することによって
リスクを回避できることができるんだと。

そんなことはわかっている、だまってろおっさん。

人間関係はそうじゃない。
人間は一つ一つが大事なつながりだと思っている。
それを失うことは一時的にすべてを失ったに等しいダメージになる。

…と思うと、空が狭い気がした。