白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

やっぱりeスポーツは受け入れられない

今週のお題「好きなスポーツ」

 

 

ぶるぶる

ニンテンドーロクヨンの箱を開けた時のことを漠然と覚えている。
俺の家に父親がまだいたころに、ニンテンドーロクヨンとコントローラーブルブルパックなるものを購入した。
選んだソフトは「マリオストーリー」といった。
ブルブルパックを装着したコントローラーはぶるぶると震えた。
その震え方は、まさに革命的だった。

その後、プレイステーションや、Wiiなど
さまざまなハードを購入しては遊んだり遊ばなかったりした。
時は10時間以上を1日のうちゲームに費やすことがあった。
面白かったのか、面白くなかったのか
その気持ちは俺には分からないけれど
とにかく俺は夢中だった。

そして、俺のプレイステーション3には
いつかホコリがかぶるようになっていた。
ゲームっていうのは、現実と比べるととても退屈なもののように思えた。

非Z世代

ぎりぎり自分は「Z世代」ではないらしい。
メディアが勝手に呼んでいるだけの世代で
正直1990年代生まれだからといって
若者にカウントされないわけでもないだろうと思いたいのだが
あの「eスポーツ」なるものがほかのスポーツと一緒くたにされるのは
正直どうかと思うのだった。

新たな価値観としてeスポーツの選手たちは
さまざまなところで顔を見せるようになってきている。
少し前には新型コロナウイルスに対する政府の政策に対して
意見をものもうす場においてeスポーツの選手が
当たり前のように顔を出していた。

スポーツ…か?
俺は定義上スポーツがどういうものとかそういうことは考慮していない。
これまでの一人の人間として、俺の人生において
スポーツがどういうものだったかというところが実際重要なのである。
人生という大量の情報の中からスポーツというものの存在の
その輪郭を浮かび上がらせてみる。

スポーツ

「スポーツ」。

幼稚園では優しい人がモテる。
小学校ではスポーツのできる人がモテる。
中学校では…忘れた。
高校では頭のいい人がモテる。
大学では自立した人がモテる。
社会人では金を持っている人がモテる。

…という。

小学校でのスポーツ至上主義は一部を除いて絶対的だった。
ゲームというのものの扱いは
ある種、確かに、コミュニケーションツールとしては機能していたが
スポーツに勝るものはなかった。

サッカーをすれば、周りに認められる。
何もなかったところに会話が生まれた。
団結が生まれた。

そうスポーツは、光だった。
そうゲームは、影だった。

影は影なりの楽しみ方があった。
何か疲れているときにその世界に自分を反映させ、悦にふけるという
自己完結的な、自分自身の世界で楽しむような行為。

画面の前の自分は少しも成長してなどいない。
それが現実世界の自分に対して
フィードバックを及ぼすことはなく
世界を救ったとしても、明日の成績が確実に落ちていることは
もはや、否定することのできない真実だった。

絞り切った雑巾さながらの自分から
夏の大会という、謎の存在が汗を搾り取っていった。
日焼け止めを塗らないまま太陽に焼かれ、弱い皮膚は赤く腫れあがった。

自分は実力不足からフェンスの向こうでそれを応援するばかりだったが
スポーツをして、スポーツを続ける彼らがうらやましかった。

どうしてだろう。
夏の暑い部屋でコントローラーを握る汗よりも
対戦相手をどう攻略するのかを考え、努力する汗が
光って見えているのは。

理屈ではなかった。

ゲームでいくら相手をぼこぼこにしても満たされない何かが
現実世界のあちらこちらに罠として存在していた。

これは非Z世代の常識なのか。
これが…古い価値観なのか。

常識なんていうものは
偏見をかき集めてフレームワークのように固めたものの一つに過ぎない。

それでも、eスポーツ
お前は、スポーツではない。

そこに輝きなんてものを感じないからだ。