白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

言語と思考結果

 

 

日本語と英語とそれから自分がかかわりのあるもう一つの言語について考える。
言語とは何か。
言語とはコミュニケーション方法である。
世界にはさまざまな人間がいる、とされている。
色が違ったり差別意識を持っているとされているが、一応人間というくくりだ。

見た目や言語が違うからか、本質的に怖いと感じる人もいるらしい。
自分もそうだ。
かつて障害のある人を見た時に、初めて会話した時に、怖いと感じた。
それはその人個人を怖がっていたのか、それとも意思疎通ができない状況を怖がっていたのか
それを覚えていない。

しかし、コミュニケーションができるだろうと思った時に
その怖さがすでに自分の中にはなかったことは覚えている。
難しいのは、それを自分自身では制御できないということだ。

言語について考える。
とにかくこういう難しことを考えると
ああ、自分は教育機関にいた時には何も考えていなかったのだな
と考えさせられることがある。
小学校も中学校も高校もカリキュラムに沿った学習しかしていない。
大学では自由な学びができるとあったが人はいざ自由になった時、モラトリアム前期で見出した自分の興味関心のある話題に突き進まなくてはいけない。
核たる自分がない人間は、自由になった時、ことさら不自由になる。
そういう意味では「自分探し」というのはバカにできないなと思った。
自分の住む町ではなく外国に行って自分を探すのは、理解できる。
極端に言えば外国に行って自分を探すのも、自分の住む町で自分を探すのも両方同室の価値を持つのではないかと思う。

さておき、言語について考えいていた。
俺の触れているもう一つの言語では「○○は言語!」とことさら主張されることがある。
「〇〇は言語か~」という感想以外俺の中にはわいてこない。

「英語は言語」と言われると、ああそうだね言語だね、となる。
その感想はどちらも変わらない。

ある日、意識高い系の番組で次のようなことが会話されていた。
「自分の友人は韓国人だ。その人はある男性と恋愛関係にある。
ナチュラルに自分の言語で将来を考えると結婚したいと思っているそうだ。
だが、英語でそのことについて考えて行動を起こすと結婚すべきではないという結論に至る」

つまり言語を切り替えると考え方が変わる、という主張だ。
動画のサムネイルには「日本人が英語を覚えると合理的になる」みたいな文言が書かれていた。

先ほど英語でブログ記事を更新した。
限られた語彙の中で限られた体験を限られた思考の中で記述する。
なんだか、文章を見ると日本語寄りもやたらとポジティブに見える。
これは言語を変えると考え方が変わる、なのだろうか?

いや、単にこれは語彙が限られているからに過ぎない。
「やばいよな」はThat's commendable!になるし
まあいいと思ったはI'm glad to hear!あたりになる。
Chat GPTを通して学んだ英語はなんだか丁寧で聖人めいていて
これでいいのかと思わなくもない。
他にも俺が英語に触れる場所と言えば会社のarticle…記事であったり
講義であったりと、なんだかお堅いものばかりだ。

かといってネットフリックスで英語の映画なんか見ていると
ファックファック言っていて本当にこんなことばかり言うのか?となる。

フレンズ、を見ればいいのか?
俺がそんな感じの学習をするとは思えない。

周りを見れば英語を話せるEnglish Speakerばかり。
会社の中だけならいざ知らず、大学の同期や大学の後輩なんかにも英語話者は多い。
俺が幼稚園児のころからグローバル化は叫ばれており、今でも英語の歌に合わせて踊らされた時
「なぜ俺がこんなことを…」と思いながら飛び跳ねていた記憶はある。

きっと、なんだかんだいって英語はいらないだろう。
…と解釈していた。
だって学校で習う英語もコミュニケーション方法としての英語ではない。
あくまで紙の上を踊る文字に過ぎなかったからだ。

会社では30%の人材を英語話者にする予定だそうだ。
30%もいればそれをマイノリティは言えなくなる。
ちなみに障害者雇用は2.5%とかそんなものだった気もする。
こちらはまだまだマイノリティだ。

お腹が空いた。
ブログの文章は落ちなし山なし。
誰も見ていないインターネットのブログの端っこで
今日も窓の外の白んだ空を見ながら、更新ボタンを、押す。