会話が無ければ
語るべきエピソードも、そこには存在しない。
ふと一人暮らしで在宅をしていると
自分の中に語るべきエピソードがないことに気づく。
本来ならば自分の目に映る風景の中に、何かを見出すこともまた人間の感性を磨くことである。
今の自分の生活には
閉じられたカーテンと目を離せない液晶の光が視界を覆っており
何か変わったことを受け取れるということはなかった。
ただただ仕事のプレッシャーのみが襲い掛かってくるのである。
俺は、人のパーソナルな部分が好きだと思い始めた。
中学の時の生徒会長がやるYouTube。
中学のころ、同じ部活に入っていた男が更新するNOTE。
大学の同級生が発信するスペース。
どれも興味深いと思った。
それは客観的に見れば伸びていないコンテンツだったけれど
俺にとってはとても魅力的に見えた。
彼らは俺の代わりに
彼らの生活から絞り出されたものを発信してくれる。
その絞り出された雫で俺は満足だった。
インターネットの海の向こうにいる彼らの存在は希薄である。
共同主観的存在。
俺はまれに彼らの声を聞いて安心する。
安心して、また一つの夜を過ごし、朝を待つのだった。