白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

知らないことを言うのはやめてくれ

 

3月7日。
あれ…3月7日?

あの曲は3月9日だ。
じゃあ、卒業シーズンがいよいよ近いということなのだろうか。
会社なんかは年度末は清算とか、なんか年度が変わるからと言ってたくさん受注が着たりとか
ちょうぜつめんどうくさいなあって感じなのだけれど
学生は学生で大変だって、学生だった自分は分かっている。

そして去年と今年はさんざんである。
何が新型コロナウイルスだ。
迷惑なもんを巻き散らかしやがって。

どうなんだ?

自殺の報道で女子高校生の命がたくさん断たれてたとやっているのを見て
新型コロナウイルスで亡くなった方々の報道と
自殺の報道でなんでこうも差があるのだろうといぶかしんだ。

とはいえ、自分の生活は卒業シーズンだろうと
新型コロナウイルスが蔓延してようと
関係なく、粛々と、今日も過ぎていった。

起きた瞬間は遠い土地で楽しく踊っているのに
首根っこを掴まれて、急に白っぽい天井のあるロフトベッドの上に
連れ戻されるような感覚がある。
どうしてか、自分のからだなのに、自分の体じゃないみたいな。
単なるアバターを操っているだけのような離人感があった。

朝は昨日作った肉じゃがを食べた。
休日でも平日でも俺は朝はたっぷり目に食べるらしい。
朝からよくそんなに食べられるなと、割りと言われるのだが
昼のほうが食べづらいし、夜食べると体に良くないというじゃないか
ならば朝食べるしかあるまいて。

そしてインターネットをサーフィンした。
インターネットをサーフィンすることには何の生産性もない。
市場がうごていない土日なので、相場に合わせて
自分の手法を研究するということもない。
今は特に改良した自分の手法を定めている最中である。

生産性のない行為に満足すると、もう昼だった。
うどんを作った。
ひと玉分だ。

最近、うどんのだしを使わなくても、まあまあうどんになるようになった。
肉うどんだからか、結構うまい。

さあ、これから何をしようか、勉強しようか、いや、勉強はしたくない。
そんな思いで俺は、先ほど届いた段ボール箱を開けた。

ブルゾンを購入したのだ。
人生、ブルゾン第二弾!

きてみた。

………。

なんか、後ろが変なデザインになっていた。
こんな話聞いてないよ。

…と思ったが、インターネット販売なんてそんなものである。
たぶん、妙な柄じゃないだけましだが
よく分からない形だった。

これが格好いいのかといえば
人によっては格好いいかもしれないけど
俺は別にこんな形望んでいないというしかない。

まあ、捨てるのはまだ早い。
俺は、このブルゾンを試着して買い物にいった。

パーカーのうえにブルゾン。
この3月初旬でもいけなくはない。

買い物に着てきて気付いたのだが、特に誰にみせられるわけでもないので
別にここにきて来る必要はなかった気がする。

今度人に会うのは4月になる(?)。
そのころまでこのブルゾンの評価は保留である。

ああ…。

俺の体力

 

 

なんとなくだるい、という状態が慢性的に続いている。
鬱ではないと思う。
鬱ってもう限界で足が止まってどうしようもないっていう状態をいうんだと思うから。
自分がもし鬱なんだとしたら、結構末期状態になっていてもおかしくない。

でも鬱の人って助けてくれる人がそばにいるんだろうか。
いないとしたら死んでそうだし、いるとしたらなんで鬱のままなんだろう?

「体力をつけなよ」

2つ上の先輩が言った。
それは指摘ではなくて、なんとなく何をしたらいいですかね適菜雑談の中で
言われた言葉であったように思う。

体力って何だろう。

なんとなく疲れやすいのなら、それは体力がないということになるのだろうか。
そういわれたら俺の体力というのは常にゲームで言うところのレッドゾーンで
もうほとんどゲージの端っこみたいな部分しか残っていない状態のような気もする。
外にいるだけですごいつらいぜ…、みたいな状態になっていて
自分でもなんでか分からないくらいにつらくてつらくてしかたない、体が。

では、そういう状態が体力がないというのだとしたら
仮にそれ以上体を動かすことはできないように思う。

だが、実際に体を動かすと行動不能になるということはない。
ド深夜に働くこともあったし、なんなら始発からその次の日のお昼くらいまで
気が抜けない是的な展開にだって耐えたことがあった。
山を3つ超えて歩いたこともあった。

最終的に疲労はすごいなぁと思ったけれど
どれも寝れば回復する程度であったことから
体力の消費という意味ではあんまり変わらなかったような気もする。
だから体力というと、体の力なんて書くけれど
俺が感じているこの気持ちは、この感情は、この感覚は?
気力なのだろうか?

体力バーはちょっとしかなくて
大体にして俺の行動では気力バーを消費しているのだろうか。

その気力バーが切れれば、俺は…朽ちてしまうのだろうか。

自分の体の謎。

でも生物であるからには、限界はあるはずだ。
最近、自分の中にあんまり脂肪がたまっていかないところを見ると
生物としては退化の方向にあるのではないかなんて思ったりもしなくもないが…。

俺の体力。どこにある。
体力はどうやったらつく。

体力、気力、精力、精神力

力、筋トレ…筋トレなのか…!?

 

 

 

 

 

ブログ

 

 

試験勉強の前になると大掃除がはかどるといわれている。
実際に経験したことはないので分からないが、俺が受験前に
漫画を読み漁るようになったりしたのと大体似たようなものだと思う。

それ自体を目的としているのではなく、逃避の手段として、その行為が選択された結果
かえってそれを目的としている以上のパワーが発揮されてしまうということだ。

俺はもうかれこれ、たぶん、14歳くらいのときからブログを書いている。
別にずっと同じブログを使っているわけではないし、そもそもインターネットを検索しても
出てこないため、それはもしかしたら俺の勘違いかも知れない。
だが、暇つぶしの手段としていつもこのブログというものは使われてきた。

確かにその結果を分析すると、やはりブログも人生からの逃避行動の一つだということが分かる。
なぜなら、肝心の大学生活の部分がまるきり抜けているからだ。
再会したと言えるのは大学4年生の部分からで、大学に入って2か月後から俺はブログを更新することをやめたらしい
それは俺が人生から逃げるのではなく、人生と戦い始めたということなのだろう。

そして、気付けば、またしてもブログという場所に舞い戻ってしまっていた。

暇なほどに、力が発揮される。

それがブログという場所のようだ…。

カテゴリ
・お題………はてなブログを開いた時に表示されるもの
      それにしたがって記事を書いたもの
・考え事……これはちょっと考えてみたいなと思ったもの
      基本的に結論が出ない記事が多い
・人生………考え事とほとんど同じだが、スケールがでかい
・メディア…本や映画や漫画や音楽など

 

「ペンを持つ手とノート」の写真

LINEと心の健康



先日、フォローフォロワーが7人いる自分のアカウントに
こんなツイートが流れてきた。

「LINEをしているほうが心の健康が保たれている」。

心のお医者さんが分析したのだろうか。
俺は元の記事を読むことなく、その記事をリツイートした。

Twitterは孤独で、LINEは孤独じゃないとか、そういう比較などする気はない。
だが、LINEが心の健康を保ってくれるというのは一理あると思う。

人はみんなつながっているのだという。

それは昭和のメロドラマをやっている時代から変わらない。
一応、歴史には大正とかいうのもあるらしいが、現代人にはまるで教科書の中の架空の世界の話である。

人に会えない。
人に会わない。

会っても、その場所では絶えず自粛の目がある。
心の呵責がある。

「お前、相手を危険にさらしてまで自分につき合わせたいのか?」
「これ以上、自己満足に他人を巻き込むなよ」

人に会わなくなった。
いや、元から会っていたわけじゃない。
この3年で俺の大切なものたちはことごとく消えていった。
しばし、人と会えていなかった。

そうして俺は、かつてLINE中毒だったのが嘘のように
LINEというものを開かなくなった。

…いや、それでもまめなほうではある…のかもしれない。

今、LINEのやり取りがあるのは、大学時代の友人一人
…といっても最近はあちらからくることがなくなりつつある。

大学のサークルの後輩たちの遊びに混ぜてもらっているものが一つ。

そして、大学のサークルの同期男性のグループが一つ。

以上であった。

確かにLINEが来ると荒んでいる自分の心が一瞬凪いだようになることもある。
個人、つまり自分自身に対してだけ投げかけられた言葉なんてものがあれば
とてもうれしくて、俺は小躍りするのだった。
たぶん小躍りというのは横に小さく揺れることだと思う。

コミュニケーションが欲しいのだ。
人が話しているのが聞きたいのだ。

結局、インターネットから放射されている莫大な情報なんてものは
ただそこに置かれているだけの情報で何の真実味もない記号の塊である。

感染者が何人だとか、仮想通貨の値段とか、情報の流出とか
芸能人のゴシップとか、オリンピックとか、どうでもいい。
本当どうでもいい。

そんなものよりも自分の知っている誰かの
しょーもない話のほうが何よりも面白いと思う。

そう灯りを消した部屋の中で思い
かつてその渦の中にいたころの自分を浮かべては
恨めしくてしかたないという気分になった。

こりゃまた退屈だ

 

記憶に残らないのは、毎日の内容がほとんど同じものだからだと思う。
…ということを何度も書いてきた。

新型コロナウイルスは人々に自粛意識というものを植え付けた。
ウイルスやら最近やらは人類と共に今までも生まれては強制してきているのだから
なぜ今回はこんなにも世界的な対策を取っているのだろうかと
少し敏感すぎやしないかと思っているのだが
それは俺の勘違いなのか、若気の至りなのだろうか。

日本の死者数は少ないほうだという。
少子高齢化しているのだから、あまり人が亡くなっても困るかもしれないとも思うし
高齢者が亡くなるのは、そりゃあ病気でも自然の摂理ではないのだろうかとも思う。
なぜあそこまで死なせないように敏感になるのかも、俺の25年では分からなかった。

そうやって自粛してマスクしていると、こりゃまた退屈だなと思えてくる。
俺が新型コロナウイルス時代に(こんな呼称使いたくもない)入ってから得たものといえば
引きこもっている大義名分を得たことだけれども
俺は別に引きこもりたいから引きこもっているわけではなく
単に一緒に遊んでくれる人とか、行きたい場所とかがないから
家から動かないのである。
結果的な引きこもりである。

積極的な引きこもりではないのだ。

いや…よそうじゃないか。
結果的に引きこもっているのなら、そこに言葉はない。
人生は結局、過程がどうあろうと、結果がすべてよ。

「久しぶりに会いに行くね!」
「一緒に旅行に行こうよ!」

勇気をいくつか、ない勇気をいくつか
絞りに絞り出して取り付けた約束も
新型コロナウイルスの感染拡大によって自分の中に抑え込むことにした。

「自粛の壁」を超えるほどには、慣れ親しんでいない。

街中で恋人たちを見かける。
マスクをして、手をつないで歩いている。

彼らは自粛の壁を超えている。
超えて、そのうえで2人で歩いているのだ。

それを狂気とみるか、ほほえましいとみるか
当たり前とみるか、この世界でそれはばらばらだ。

だが、あごマスク路上喫煙男、俺はお前を許さない。

時限爆弾

今週のお題「花粉」

 

 



花粉が体内に侵入し、ある程度飽和すると花粉症になるという。
周りの人たちがティッシュケースからティッシュを大量に引っ張り出しているのを見ていると
あれがいつかあんな大変な目に合うのかと思うと寒気がしなくもなかった。

時限爆弾が人の体にはたくさんある。

水疱瘡とか、親知らずとか。

いつかくる自分の中の爆弾に対して恐れがある。
人間の体は20歳まで(?)急速な成長をしていくのだが
その後は下り坂を歩いてい歩いて死に向かうのみだった。

合理的に計算して…ということができないのが人生だという。
実際、目の前に起きている問題というのはいろいろ分からないことばかりだ。
対処しきれない。

でも対処しきれないのは俺の知識がまだまだ足りないからだと思う。

 

「天邪鬼」

 

それにしても灯りは
闇のない場所では役に立たないと気づいたんだ

「天邪鬼」は
「てんのみかく」というアルバムに収録されている曲である。

あれは高校3年生のころ
受験期に入っているというのにまるで受験がから逃れるように
俺は漫画を読んだり、新しい音楽を探していたりで忙しかった。
その活動の中で見つけたのが「てんのみかく」である。

なぜかそのアルバムはどれも名曲だと思えるようなものばかりで
方向性というか、イメージできる風景が違うのに、どうしてこんなにも気味よく仕上がっているのだろうと
人からもらったよく分からない携帯型音楽再生器にその音楽を入れた。

うれしいときに「うれしい」って言わない。
苦しいときに「くるしい」って言えない。

こだまじゃない。
それは天邪鬼?

その状況と逆のふるまいをするというのは自分自身にも言えることだけれど
俺の場合は、未熟にも照れ隠しからそれをしていることが多かった。
好きな人に好きなものに対して、何も言えない、ふるまえないのは
なんだか思春期の子供のようだった。

「天邪鬼」という曲はこのアルバムの中では
比較的、淡々と歌われている曲である。
曲は、風の音と共に始まる。
守るべき存在を失った者の嘆きのようなものがつづらていた。

それにしても灯りは闇のない場所では役に立たないと気づいたんだ
というのはよく言ったもので
いくら力を持っていても、役立てる場所がなかったり
その力を使いたい対象がいなかったりすると
それは、もはやないのと変わらない。

ただ失った者の重要さを感じる。
そして立ち尽くすのである。