白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

夢遊感

 



電車から降りて歩いていた。
ふと、ポケットのふくらみがないことに気づいた。
内ポケットにも財布の中にも、「それ」がないことに気づいた。
少しばかり絶望的な気持ちになり、今日1日を振り返った。

始まりは、充電したはずの高級ワイヤレスイヤホンが充電を求めてきたことだった。
なぜ、そんなことになってしまうのか。
思えば、3日間にわたる長期滞在の間、イヤホンの充電はずっとケースに頼ったままだった。
ケース本体の充電を怠っていたのだ。
ならばケース自体を軽く充電してしまえばいい。
俺はこんなときのためにコンセントもついている便利なモバイルバッテリーを持っている…。
…と思ったが、3日間の長期滞在をした時に、鞄の中に詰めてしまったらしい。
そして鞄は、まだ整理されていない。

音楽が聴けない。
ごみごみとした満員電車の、これまたごみごみとした雑音を聴きながら、職場に行くことにした。

午前。
「教えてほしい」と言われたことを思うように実行できず、恥だけをかく。
なんだか難しい。
なんだか、やる気が出ない。

昼休み。
休憩スペースに同期社員2名の姿が見えた。
俺はウォーターサーバーからいつものようにお湯をくんで、席に着いた。

「どうしたの?」
「やる気が出ない」
「俺も」

みんなやる気が出ていない。
俺もやる気が出ていない。

長期滞在をすると、今ここにいることが、この3年間の悪夢が
やっぱり単なる悪夢なんじゃないかと思ってしまって
錯覚してしまって、疲れてしまう。

いや、単純に移動に半日かかるのが疲れてしまっているだけなのか。
別に俺の移動を誰かが顧みる必要はないけれど。
もうなんか、もうなんか、疲れた…。

午後。
年末でこの職場から追い出そうとしている割には名指しで業務依頼が来る。
しかし、年末の決戦には参加しろと言う。
それとは別に某歌合戦に関する業務もある。
バカな…。
なぜ俺がこんな目に…。

ある意味、おいしいけれど。
ある意味、不幸ともいえる立場だった。

気付けばもう、終業時間だった。
見渡せど見渡せど、残業の嵐。
しかし、俺の仕事に関しては特にノルマや締め切りがあるわけではない。
俺は買い物がしたいので帰ることにした。

充電ができていないので、帰りの電車でも、当然ながらアナウンスを耳にしていた。
人は電車で座ろうとする。
だが、最近、座る場所にもこだわりを感じるようになった。

俺の隣から、斜め前の、同じくらいしか空いていないスペースに移動するのはなぜだろう?
前から走ってきた中年女性が、回れ右して少し離れた席に移動したのはなぜだろう?
不思議だ。
不思議で、不可解で、少し不愉快だ。

最寄り駅。

先週購入したハイネックニットが思いのほか防寒機能に優れており
俺は寒さを心地よく感じていた。
午後の紅茶」のCMで歌われていた「楓」を鼻歌にしつつ、マンションまでの道を歩いた。

そして、気づくポケットに鍵がないことを。
今日何を食べようかなぁ、から、マンションに入れるかなぁに変わる、俺の悩み事。
そもそも、オートロックのマンションには鍵がないとは入れない。

俺はマンションに着いた。
どうすることもできない。

ひっそりと、オートロックが解除されるのを待った。
解除された。
俺は泥棒のように、某日本放送協会の集金人のようにオートロックを突破した。
しかし俺の部屋は10階にある。
階段を上った。

一段…一階…二階…。

周りの景色が高くなっていく連れて、やはり地面に飛び出したくなる気持ちが強くなった。
どうも、だめらしい。
火を持てば何かにつけたくなってしまうし、登れば落ちたくなってしまう。
以前は、そういうことをすると悲しむ誰かの存在を感じていたから踏みとどまれたが
どうも、今はそういう人の顔は思い浮かばなかった。

いよいよ不味くなってきたので、俺は足を止めて、しばらく休んだ。
自己防衛である。
自己防衛であるが、やはり自己を防衛する意味が見いだせなかった。
俺は何のために自分を守るのだろうか?

10階にたどり着いた。
扉を引くと、開いた。
鍵はかかっていなかったようだ。
助かった。

どうしようもない夢遊感がある。
いっそ何もかも投げ出せば、元に戻れはしないだろうか?
テレビ台に飾られた集合写真には見知った顔が並んでいた。
そこに映ったものが今は遠く感じた。