人材には4種類いると解説があった。
替えのきく有能
替えのきかない有能
替えのきく無能
替えのきかない無能
そういう実態とはまた別に印象の問題で出会う「有能そうな無能」。
それが俺のことであるのは言うまでもない。
どうも「実はできるやつ」を演じたい自分がどこかにいるらしく、俺はそんな雰囲気を出そうとしているようだった。
「なんでもできそうじゃないですか?」
そう今日言われて心のなかで頭を下げた。
有能はそもそもこんなところにいない。この場所の周辺には有能はいない。
自分の後輩や同期だった人たちが「有能」であったことは俺にとってよかったか悪かったか。
とにかく俺は、時折彼らと自分を比べてしまう。
自分だって彼らと肩を並べたい、自分だって彼らの上にいきたい…。
…そう思うことがどれだけ小さいことか、浅ましいことか、それはもう自覚しているのだが、本能がそう叫んでいた。
なんの努力もしてこなかった人が勝ち上がれるほど、俺の遺伝子は才能を秘めてはいない。
きっと、頑張れば、あと二段階くらいは(?)、自分は変われそうだという予感がある。
しかしながら思った。俺は自分のために、自分のことを思って頑張ることができないようだ。
大学時代、自分は「頑張った」と思う。
それこそ、「大学への登校」だけで右往左往していた自分が頑張れたのは「周りのため」という大義がそこにあったからだろう。
「同期のため」
「団体のため」
「未来の後輩のため」
「後輩のため」
「卒業する先輩のため」
「友達のため」
自分の外に理由を特定できれば、俺は頑張れる気がした。
しかし、今や帰属させるべきものがなかった。
飛び写ろうとして、その先がないようなものだ。
自分のために生きる力が沸かないのは、どうしてなんだろうか?
生きる力は、どこからくるのだろうか?