たくさんの「できない」のうえにしか「できる」はない。
だとしたら人に迷惑をかける「できない」は俺にとっては許されないかもしれない。
俺は学生時代のクラブからさまざまなことを学んだと思う。
それは挑戦することの勇気とそれによって得られるメリットと、それに伴うデメリットもそうだ。
友人との確執も、友人との遊びもそうだった。
決定的に大学に入る前の自分と違うのは
「できない」が「できる」につながることを知っていることだった。
圧倒的に何もできない自分の能力が、昔から嫌だった。
嫌だったがいつしかそれにすら慣れるほどに俺の人生にはその無能力はついて回った。
人間である以上、自分の身体からは逃れられはしない。
脳から解脱するには人間を、辞めなければならない。
なぜ俺は走るのが異常に遅かったのか。
なぜ俺は話すのが苦手だったのか。
なぜ人を不快にさせてしまうのか。
なぜ言葉が出てこないのか。
なぜ手足が震えるのか。
昔からついて回る自分の無能力に、いつしか俺はあきらめていた。
何もできない自分は何もする必要がない。
母は、「何もできない子」だと言った。
俺もそう思った。
確かに俺が「できる」ようになったことは市場価値の観点で見て大したことではないかもしれない。
そして、そこから得たものの中で特に大事なものを失った俺にはそれを語る資格はないかもしれない。
だが、できないことを積み重ねた人間ならば
きっとその果てにできるようになることを俺は知ることができた。
俺の身体は、きっとその道のりにすごい時間がかかるだろう。
人よりも不器用だった。
常識しらずといわれるのならば。
だが、その挑戦に価値があると
いつか認めてほしい。