白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

ラスト後輩

 

 

最近1週間がなんかつらい。
今までは先に週的に仕事が入っている日があって、その日が怖いなとか
その日の会議のために、いい感じにまとめたり準備したり問い合わせに回答しないとなとか
そういうのだったんだけれど、通勤時間が長くて苦痛だったり
人手がただただ足りなくて定時というものをついつい破りがちになっていたりするのは本当にめんどうくさい。
大体、一人当たりのノルマ達成じゃなくて、全体のノルマ達成を目標にしていると
結果的に割を食う形になってしまう。

…とかなんとか考えているうちに金曜日だった。
この日、自分の大学の卒業式である。
大した知り合いもいないので日程自体はTwitterで調べるという手段を使った。

今年の卒業式は自分が4回生のときの1回生のものである。
つまり、今年卒業式が行われると、自分の後輩というものはすべて学生ではないのである。
いまだに大学時代の思い出が足かせとなりフラッシュバックする身としては
そんなにも時間が経過してしまったことに驚きを隠さざるを得ない。

大した知り合いはいないと書いたものの
4回生のときも頻繁に、サークルというものに通っていた俺はそれなりに1回生とも面識があった、当時。
そしてそして、年に一度のペースで会っていたりもしたのだった。

年に一度ってそれ、どうなん?と思わなくもないが、それでだって疎遠になってそれきりよりずっといい。
結果的に後輩たちは、この新型コロナウイルスなんてものに規制されながらも卒業式に赴いていったのだった。

ちょっとだけその様子をLINEやTwitterなんかからのぞき見て、俺は少し、その日うれしかった。
金曜日ということも関係しているのかもしれないが、うれしかった。

そして、初めて俺は、会社の帰りでコンビニでお酒を購入した
消費税は10%、価格は110円である。
意外と、安い。

せっかく、楽しい気分なんだから俺だって楽しくなるのかなと思った。
ラスト後輩の中でも間もなく東京に来る一人の後輩がいる。
大体時期としては俺と入れ替わりくらいになるらしい。

引っ越しパーティーをしよう。
かつて自分がしてもらったみたいに。

ただ一つ、年に一度しかあってなかった先輩と
そんなホームパーティーやらされる立場の人はどうなんだって
気にしちゃう自分がいるところだ。

…実際、どうなんだ?

天然パーマ、その存在と憂鬱



天然パーマという人種が古来から確認されてきている。
彼らは直毛ではない。
だが、直毛と言われる人々の中でもさまざまなタイプがいることは確かだ。
なのに天然パーマはそれらとは大別されている。
それは天然パーマがあまりにも、あまりにも、憂鬱的存在であるからに違いないと俺は思った。

1995年。
阪神淡路大震災をぎりぎり被災することなく生まれた俺の毛髪は
その当時からここまでのうねりを持っていたわけではなかった。

少年は、多少のくせっけを持っていたが
そこそこの外国人っけのある顔をしていたので
ほどほどのバランスを持ちながら人生を歩んでいた。

生と死の螺旋を体現するようなうねりと、空気中に霧散していく水分。
それが明確に現れてきたのは、10歳のころである。
呪いの足音は、徐々に迫ってきていた。

「すごい頭だね」

塾で机に付している俺の頭を見て、女生徒がそう言った。
もう手遅れだった。
抱きとめようとした水分は、あっけなく空気中に逃げていき
失われた髪は無惨にもチリチリとした質感を持ち始めた。
同時にゆがんだ毛穴から生えてきた髪の毛たちは独特のうねりを持ち、世の中のすべてを憎むようにねじ曲がっていた。
その髪の毛たちは決して天を目指していきはしない。
大地から天を歪んだ視点で見上げているのである。

えんぴつが、頭に刺さった。

ものさしも、頭に刺さった。

気になって俺は、いくつかの人々の頭にえんぴつを差し込んでみたが
えんぴつたちは乾いた音を立てて、床を転がっていくだけだった。

風が吹いた秋の夕暮れどき。
いつまでそこにいるのか。
地面を見ると痩せた黒い影が自分から伸びていた。
うなづけば、うなづき、うずくまれば、うずくまる。
あたまにジャガイモをつけたようなそれは薄気味悪かった。

天然パーマの欠点とは、カールよりも、チリチリ具合にある。
水分を保っていられないことから起きるこのチリチリが
最近言及されがちな清潔感の欠如につながっているのではないだろうか。

それを攻略するためのアイテムは
ヘアオイルにこそあると、細心の俺の研究(?)で分かっている。

雨雨ふれふれ、母さんが



東京。
新型コロナウイルスの感染者数が累計最も多いといわれている(自分の中で)土地である。
その土地で今、雨が土砂降りであった。

だというのに、俺は先週買い物の量がちょっと少なかったという影響で買い物に出かけざるをえないのであった。
黒いスキニーパンツを履いて、ベージュのニットを着て、外へ出た。
雨に、降られた。

ベージュは、茶色になった。

雨が降っている。
ここのところ、東京の天気はものすごい快晴で、すばらしかったため
この反動がここに来たのかもしれない。
そう俺は部屋の中から、干されているタオルを見つめながら思っていた。
あのタオルはそろそろ、限界なのかもしれないな。

ロックダウンってなんだったの…?




新型コロナウイルスが流行り始めた
ちょうど、1年くらい前だっただろうか?

報道に横文字が並び始めて、それの意味するところがよく分からなくなってきていた。
横文字描いた後に(○○)と日本語で注釈があるフリップを見ていると
○○って最初から言えばいいんじゃないかという気持ちにもなってくるし
何よりも造語を作ることで事態をややこしくしているような気もする。

「ロックダウンされるかもしれないから食料に気を付けてね」
「来週ロックダウンされるんじゃないかと思っています」

なんて、自分もロックダウンっていう言葉を使ってはいたけれど
結局、会社に無視される程度の緊急事態宣言を何回か出すだけで
そこまで強力な命令が出るわけでもなく、俺は緊急事態宣言が出ている中渋谷を歩いていた。

ロックダウンの言葉の意味を調べてみると、確かに都市封鎖とは出てくるが
定められた場所から人の移動の禁じるって、そんなこと、本当にできるのだろうか?

物流とかはどうなるのだろうか?
だから買い込み頑張ってね、みたいな風潮になっていたのか。

噂だけが一人歩きするロックダウン。
ロックダウンされたら何が変わるのか。

さまざま、やはりこの新型コロナウイルスについての対応は個人的に違和感がある。
感染症は広まらないと、収まらないのでは?
人間は生きている、ウイルスだって生きている。
そこに感動的なストーリーとか情緒とかを感じるかどうかは、見る人次第じゃないだろうか。
生き物が調子に乗るなといわれて死んでしまっても、それはそれでしかたないところではないだろうか。
地震のような自然災害とは、趣が違う気もする。

ウイルス自体が空気に触れて死んでいくというのならまだしも
それとも抑え込んで、そのうちに完璧なワクチンを開発し
国民全員がそれを打ったらOKということなのだろうか?

この感染症がオワコンとなったとき、どのような扱われ方をするのだろう。
東日本大震災から10年がたったという。

黙とうしている人たちがいた。
新型コロナウイルスがなんであれ関わって亡くなってしまった人の数は
何十万人と既に出ているのではないだろうか。

どうなん?
どう扱われるのか?

誰が決めるのか?
そしてその風潮に俺たちは乗っからないといけないのか?

会社からの卒業

今週のお題「〇〇からの卒業」

 

「駅のホーム上で並ぶ人たち」の写真



ふつうに…、ふつうというのが何なのか
ここでは、運営側の想定通りのレギュレーションでは…という意味だが
ふつうに進学を続けていれば、小学校は6年間で、中学校は3年間で、高校も3年間で
そして大学は4年間で卒業する。

ああ…、薬学部とかは6年生なんだっけ?
でも、多数派はやっぱりこの、6・3・3・4なんだろうな…。

俺は卒業してきた、3年間って長かったような気がする。
人が変わるのには十分なくらいで、それは始まったときと比べればずいぶんその姿形や思想まで変わってしまっていたんだろうなと思う。
そして、また、次の卒業がやってきそうである。

会社というのは基本的に卒業なんてするもんではない。
なんだろう一般的な企業で教えているらしい
「学生と社会人の分かりやすい違い」というやつで
学生はお金を払って活動を行うが
社会人はお金をもらって活動を行うというものがある。

また金の話か…と辟易するが、この世の中お金という分かりやすい指標で動いているのだからしかたない。
精神性とかを評価するシステムが導入されていたら世の中、また変わったのだろうか?

だが、今の職場の雰囲気からするとゆるゆるで卒業すると言ってもおかしくないような気もした。
昔の自分、学校で授業を受けていた自分は25歳がこんなにも緩いものだとは思っていなかった。
母親は社会は厳しいと理屈もないままに俺に言っていたが
やはり社会とは、会社とは、よく分からないものだった。

卒業すると、その立場を失う。
この社会のシステムは複雑だ。

保険を受けたりするのにいろいろな手続きをしないといけないし
次の就労の機会がいつになるのかも分からないし
世界的な感染症が突然流行るし
そして、何よりも同調圧力が恐ろしい。

今日は雨だった。
今を引き延ばすだけの生活が、もうあと2か月で終わる。

そして、何かが始まる。
あるいは、何も始まらないのかもしれない。

片思い

 

 

 

 

 

もう自分長~く、片思いをしているような状態が続いている。

俺が送らなければ誰からもメッセージなどこないし、ひどいときは俺が発信しても何も帰ってこないことも多い。

新型コロナウイルスが感染拡大し、自粛を強要(?)されているという訳の分からない世の中だけれども、人は自分の好きな人とゆる~く付き合っているんだろうか。

 

こういうとき、生きているのってめんどくさいし、他者の存在が疎ましいように感じられる。誰かとつながるとき、自分は幸福になるけれど、誰かと離れてしまったときの苦しみはその日ではないくらいに心をむしばむことを知った。

 

そう、得られる幸福よりも、失う苦しみのほうがでかい。

 

そう思えば最初から友達やら、恋人やらなんていないほうがいいなんて、恋愛なんてめんどくさいとか、友達なんていらないよとか、そういうセリフ吐くような気持ちが、分かるようになった。

 

幸いにも、そんな気持ちになったことない人だっているし、親孝行を微笑みながらやろうとしている人だっているし、世の中、どうなってんねんと思うけど、世の中は最初から壊れているようだった。

 

小さい子供を教えるのはオトナ、親と教師である。

 

実際、どうだ。

その教師なんて社会全体を見渡してみるとぶっ壊れ職業のうちの一つだ。

給特法というらしい謎の法律のせいで頑張っても頑張っても評価されるのかされないのか分からない状態で働いている。

そして教えるべきとされている何かを教えるらしい。

 

そして、子供は育ち、実際には求められることはちょっと違うという社会と戦うことになる。

 

どうやら現実は非常なほうが生きやすい。

切るべきものを切り、見捨てるべきものを見捨てる。

勝つために裏から回り込むこともあれば、性別を武器にすることもある。

権力にすり寄ることも。

 

ドラマやらで思い切り悪とされる何かが是とされ、見本を示すと自ら言っているオトナでさえ、汚れに汚れた醜態をさらすのだった。

 

それを見て、もう、俺は

やになっちゃいました。

見る、見られる

 

 

3月10日、朝である。
成果君は7時50分である。
出勤というか、家を出る時間までは残り30分くらいである。
今日は3時に起きてしまったので、多少時間に余裕があった。
3時に起きてもこのくらいしか余らないというのは、俺は相当朝に時間を使っているということなのだろうか。
今日も、今日とて、朝ご飯はうどんであった。
手抜きご飯であることは、最早間違いないだろう。

見る、見られる。

昨日も一日、席に座って、いるんだかいないんだか分からない業務をしていた。
正直、あの席に自分が座っている意味はあんまりなかったと思う。
職場の働き方がやけにアナログなせいでこうなっているのだが、そこはどうにもならないらしい。

おじいちゃんの相手をするのは疲れた。
思えば大学生のころからもおじいちゃんの相手をしていたし
実際のおじいちゃんが生きていたときもおじいちゃんとの接し方はよく分からなかった。
あんな野生から出てきましたみたいなおじいちゃんだったのは、今思えばおかしいような気がする。
なぜ逮捕…、よくて補導されなかったんだろうか?

そんな人とのかかわりがない業務にもかかわらず
俺は髪の毛を整えようと頑張っていた。
まあ整わないのだが。

毎回、結果が違うというのはあんまりよろしいことではないのだが
自分の髪質は、俺の能力不足があるにしても
あんまり「まとも」とは言えないと思う。

大学時代の毎回同じような服を着ていたのを反省し
今は毎日違うような服を選んだりもしていた。
特に、誰に向けてやっているわけでもないし
そんなことを誰に頼まれたわけでもない。

見る、見られる。
人に見られる、人に見られない。
たぶん、今の俺は誰にも見られてはいない。

それでもいつか誰かに見られるときのために俺はやっているんだろうか。
見られるための練習を。

鏡でセットした髪も
動画で確認してみると、なんだか妙な気がした。
写真写りが悪いというのは、いわゆる、この左右差からくる違和感のことではないのだろうか。
そんなめちゃくちゃな左右非対称な顔ではないものの
髪型はちょっと左右非対称な気がした。

こりゃあ…、あれだな…、どうしようかな…。