白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

文系に意味はあるのか



俺の出身は、大学の文学部である。
文学部なんて、いまいち何しているのか分からない。
経済学なら、そりゃあ経済学を修めているんだろうな、なんて思うんだが
文学部なんて、文学を修めているのかといえば、そうではないだろう。
俺が文学を勉強したのなんて、1回制のときの芥川龍之介の授業くらいである。
しかも、たいていの人間は、文学なんかで給料を得たりはしない。
最終的には銀行員とか公務員とか、そういう現実的な道を選ぶことが多いのだ。
それでは…果たして、文系の人間が大学の頃の学んだいくらかの内容はどのくらい、社会生活で役に立っているのだろうか。

自分自身のことで言えば、俺が大学の、専攻で得た知識で生かされているものはない。
ないのだ。
ゼロなのだ。
入学当初できなかったことが、確かに卒業時はたくさんできるようになっていたが
それはすべて俺が個人的な活動を通して手に入れたものであって大学の授業から得たものではなかった。
環境的な要因が確かに俺に作用した。
そういう意味では大学に行ったことは無駄ではなく、むしろ大学に行っていなかった場合の自分が怖くはある。
案外、今頃、介護施設などで元気に働いているのかもしれない。
だが、本来授業料というものを支払ってスキルを買うはずの場を俺は全く生かしきれなかった。
これは大学の批判ではなく、自分自身の批判である、反省である。

しかし、それはともかく思ってしまう。
理系の人の話を聞いていると、それは現実世界に作用しうる、いわゆる意味のあることだと思うのだが
どうも、俺自身の書いた卒業論文や、周りの人の卒業論文を見ると、これに何の意味があるのか本当に分からなかった。

みんなは真面目だ。
真面目に考察し、真面目に図書館に通い、真面目に参考文献を載せていた。
そうした雰囲気の中、俺はどうしても突っ込めなかった。
唯一、法学部だけは法にかかわる職業になった場合は生きるようなことをしているように見えたが
文学部のやる文学に対する考察や、昔の人の哲学をただただ解釈しなおすだけの論文には、いったい何の意味があるのだろうか。
それを考える思考方法やアプローチを鍛えることが目的で、題材はなんでもいいのだろうか?
学部というのは、もしかしたら、もっと抽象的な能力を鍛えるのが目的で
題材をただ選んでいるにすぎないのかもしれない。

世界に作用しない能力なんて無意味だと思ってしまう。
実際のところ、社会的に文系に求められていることはコミュニケーション。
コミュニケーション能力コミュニケーション能力と、就活時代や、新入社員時代によく言われた。
いやいや、理系の人だってコミュニケーション能力くらいある。
文系ってなんだろう?
理系になれなかった人が文系になるんだろうか?

こういうのはもしかしたら、高校時代に誰かと話すべきだったのかもしれない。
もしかしたら、高校教師と話すべきだったのかもしれない。
俺は、話すということを放棄してきた。
そして、今もその機会を損失し続けている。

ある後輩の書いた文章を読むと、そこには自分がしてきたことが主に書かれてあった。
まるで履歴書みたいだと思ったが、彼女の積み上げてきたものがゆるぎなくそこにあるのである。
何番煎じかも分からない文章とは違う彼女の人生。
もちろん、あれは論文ではないが、どれだけ価値のある文系の文章よりも、俺はこっちを読みたいと思うだろう。

文系って何なんだろう?
俺に子供ができれば、それを再び考える機会が来るだろうか。
俺の両親は特殊である。
両方とも、中学以降の教育機関には属していない。
時代の流れも手伝ってか、1人の子供が今こうして成人している。
育成には成功したわけである。

成人までの過程に、教育がある。
教育されている間は教育のことなど気にも留めなかった。
俺の精神が未熟だったからだろうか。
それとも、そういうものなのだろうか。

考える。
考えるが…、1人の思考には限界がある。
話し相手が欲しかった。
そんな自分勝手な思いを現実に漏らさないために、こうして白みかんに投稿する。