白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

「人間じゃない」

 

 

 

 

享年93歳だという。
死に化粧をした祖父の額に触れると冷たかった。

自分の母方の祖父が亡くなったのは今から10年以上前のことだとおぼろげながら記憶している。
おぼろげなのはそこまで命日に執着していないからかもしれない。
これから生まれてくる命には祝福があって、亡くなる命には何があるだろう。
感傷は必要なのだろうか。

母方の祖父は酒の飲み過ぎて意識を失い数日のうちにこと切れた。
こと切れる寸前の泥酔した祖父は俺のことを見て「お前、誰や?」と言った。
祖父は昔から余計なことを教えてくるおかしな人だったと思う。
そしてその祖父に反抗している母親も一見まともに見えて、他人を家に招くと俺の観衆がおかしいことに気づいた。
時代がまだ平成初期だから許されていたところもあるのだろうか。
祖父は普通に迷惑防止条例違反とかで注意されかねないことを平気でしていたように思う。

彼の死は盛大なる葬式によって飾られていた。
その輪の中で親戚の口は出すが何もしてくれないおばちゃんが
俺にたきつけるような言葉を投げかけ、なぜだか涙が出たことを覚えている。

「泣け」という雰囲気があたりに漂っていた。
どうしてお葬式はあんなにも悲しみに満ちているのだろうか。
グスグスとこだまする音に正直、嫌気がさしていた。
メモリアル事業についても就職活動で受けたことがある。
面接を担当した連中は嫌な奴らだった。

「泣いた」

「泣いてないよ」

「人間じゃない」

小さな命が言った。
別に侮蔑の意を込めたわけではない何気ない一言だったが確かに俺は泣かなかった。
親が死ねば泣くだろうか。
分からなかった。
身体に反応する部分があることを俺は感じていた。
だが、心に反応する部分はない。

父方の祖父が亡くなった。
2023年2月26日、昼のことだった。

父方であるということは、離婚した父の家族ということだ。
母のもとで育った俺としてはなんだか肩身の狭い思いはある。
畳の間で少々退屈な思いをしていた。

葬式は退屈であると同時に、死者が主役という
ある意味何をしているのか分からないところではある。
その人にはもう感じる器官はない。
もう動かないのだ。

肉体と魂というのは非常に分かりやすい考え方だなと式の最中思った。
そこにあるのは祖父の肉体である。
魂はそこにない。
天国へ行ったのであるという。

天国?

天国ってどこの宗教観からきているのだろう。

日本人の宗教観は適当だ。
クリスマスとか、七夕とか、結婚とか、葬式とか。

葬式は置いていかれた側の心のためにある、などという。
では、俺はそのときどうするのだろうか。

この葬儀は家族葬でとり行われた。
小規模であった。
だが10人近く人がいた。

つまりは息子2名=夫婦4名、およびその子供+兄弟という集まりだ。
子を設けるだけでこんなにも増えるのだ。
そうして俺にはまだ子供はいない。

紡ぐべき命もない。

俺は葬儀の最中。
命について考えていた。

本来であれば結婚して子供がいてもおかしくなかった。
たった1つの介入さえなければ。
そうなのだろうか。
俺は命を残すに足る命なのか。

子供は一切合切親のエゴイズムによって誕生する。
エゴを発揮したくないと思うのに、それはしていいのだろうか。

巡る。
考えが廻った。

20時。
俺は帰宅していた。

「旅行中の祖父が階段から落ちました」

ある後輩の祖父も階段から落ちていたらしい。
孫はそこへ向かうようだ。

3歳にして、気づいてから自分はもうずっと変なように思う。
何かが欠落しているように思う。
人はどう動く、人はどのように動くのが正解なのか。
自分は人とかかわるべきなのか。
何を守るべきだったのか。
なぜ何かを蔑ろしにないと何かを守れないのか。