白みかん

白みかんは、おいしいみかん。みかんを剥くのがうまいよ。

「空の色くらい変えたっていいじゃないですか」

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 



2023年9月11日。
スーパーの冷房に寒さを感じ、秋の訪れを知る。

もう28年も生きてしまったと思う。
三面ある窓ガラスからうつる空も、外に出なければ壁となんらかわりなかった。
東京に出て3年戻ってきて2年。
すでにおしまいを迎えた人生は、予想通りに失速していた。

初めてブログを書いたのは中学生のころだった。
テレビと同等に、それこそこれだと指をさして買えばすぐに使えると思い込んだ祖父がある日言った。

「パソコンを買うんや!」

俺はその日祖父に連れられて家電量販店に行き、店員と会話した。

「これは最新のパソコンです。動画だって作れちゃいますよ!」

動画が作れるから最新のパソコンなのか。
それは俺には正直よくわからなかったが、それならそれだいいだろうと話に乗っかる。
ネット回線の開通は当時、そこまで簡単ではなく数日の工事が必要となった。

数日の苦労を経て、ついに俺はパソコンを取得した。

その数か月後に俺はFC2ブログを開設したのだった。

思い出したくもないそのブログにてわけのわからない装飾やわけのわからない音楽を流したりなどした。
そうやってさまざまなカスタムをして、さまざまな試行錯誤を繰り返し
アメーバブログへと移り進んだ俺は、更新を辞めた。

大学生になってからはパソコンを触る機会が減った。
別にそれまでもネトゲ廃人、というほどパソコンを触ったこともない。
というよりもネトゲ自体そこまでしたこともなかったが無限にある暇をつぶすために画面と向き合っていたように思う。

大学を卒業しようというころ、俺はブログを書いていたことを思い出してアクセスした。
目も当てられない3年前の自分の足跡を見て、俺は変わっていく自分を残しておいたほうがよかったなと
初めてブログを「書かなかったこと」を後悔した。

3年前の自分と、そこにある自分はまるで別物だったからだ。
その時の自分の断面を残す力が確かにそこにあった。
そこに紡がれた文章はだれのものでもない自分のオリジナルで
細胞も記憶も感情も、もう二度と取り戻せないものだと知った。
自分でありながら、自分ではない自分の断面を残す力がブログにはあった。

とはいえ、髄分あれから時間がたって
当時、ブログを探せば出てくるのはたいてい本来の意味でのブログだったが
今ではアフィリエイト目的のサイトが増えてしまったように思う。
俺はもっと自分の主張欲があふれている時代のブログを見たいのかもしれない。
俺はもっと創作意欲が漏れ出した結果のコンテンツを見たいのかもしれない。
濁りのない美しさとそれに費やされた無為な現実に魅力がある。

そうして俺は3年ぶりにそのアメーバブログを更新した。
だが、なんだか、気持ち悪くなり、ブログの媒体をうつすことにした。
そうだ、自分は変わりたかったのだ。
この時の自分から。

俺ははてなブログへと媒体をうつした。
ブログは、アセットでも何でもない。
そしてさっきのようなコンテンツでもない。
ブログは俺にとって代謝された澱のようなものと何ら変わりない。
だから、媒体を移すのだってためらいがない。

そうやって今に至る。

ブログが更新されるとき、それは俺が現実世界を楽しんでいないときだ。
この1年は特に変化のない日常で変化のない世界だった。
感情に波がない。
なので感情は穏やかだった。
これは穏やかなのだろうか。
少しずつ激情のようなものが消えていき、虚しさが残る。
そして朝起きてまた、自分を延命するために会社に従事する。

「空の色くらい変えたっていいじゃないですか」

曜日ごとに空の色が変われば
もう少しだけ世の中退屈しないんじゃないかと提案した人がいた。
しかし、実際に空を見てみてばどうだろう。
雲は地味に動いているし、光は常に変化している。

俺はマンションの隣にある公園へと歩いて向かった。
中央にある大きな林を中心に遊具が取り囲むように配置されている。
俺はなんのためにあるのかよく分からない遊具の近くで腰を下ろして
数分空を眺めてみることにした。

憂鬱な人というのを演出してみたくなったからだ。
だが、1分もたたないうちに俺は空を見ていることに飽きてしまった。
それはとてもつまらない行為だった。

いつか池の近くの草むらで星を見たことがある。
あの頃に見た空のほうが幾分マシだった。

その幸いさえ今はどこにも残っていない。

部屋の隅で呼ぶ声がする。
自動掃除機だった。

今は俺を呼ぶ人はいない。
この先も少なくなっていくのだろうか。
それを時折、綴りたいと思う。